東日本大震災から丸15年が経過する前日の3月10日、WAN主催イベント「3.11は終わらない:15年後 自主避難者のいま」がオンラインで開かれた。その模様を詳しく報告する。

まず、司会のWAN理事・古久保さくらさんが「国が原発推進に舵を切る中、今、原発をめぐる問題はすごく語りにくくなっている。震災からの復興が進んだという一方で、実際には福島第一原発事故による生活圏の放射能汚染によって避難民の苦労が今もずっと続いている。国策として原発を推進してきた結果の大惨事であるにもかかわらず、ただただ避難民に負担を押し付けている現状の責任をあらためて問い、明らかにしたい」とあいさつ。
国内避難民の2人からの報告の後、コメンテーター2人が原子力発電と事故被害の本質、さらに原子力政策が地域住民、特に女性に与える影響について話した。

●森松明希子さんのお話(自主避難者、原発賠償関西訴訟原告団代表)
「東京電力福島第一原発事故と避難の権利 #誰の子どもも被ばくさせない」

あなたは避難を「権利」と考えたことはありますか?
2011年 3月 11日、私は福島県郡山市に生後 5カ月の娘と 3歳の息子、夫と4人家族で住んでいました。5月に2人の子を連れて大阪市へ母子避難をしました。夫はこの間ずっと郡山市に残ったままです。郡山市は強制避難区域ではなく、強制避難区域から移り住んでいる人たちもいます。強制避難に対して、よく「自主避難」と言われますが、私はずっと「自力避難」だと主張してきました。今年のメディア報道では「自力避難」と書いてくださることが増えて、少し潮目が変わりつつあるのかなと思っています。 避難に至るまでの詳しい心情は『母子避難、心の軌跡』(かもがわ出版、2013)に書きましたが、2カ月の間私はものすごく悩み、考え、人生で 一番決断を迫られました。今も毎日が「避難」の決断の連続です。子どもたちは15歳と18歳の受験生、息子は成人しました。

母子避難、心の軌跡―家族で訴訟を決意するまで

著者:森松 明希子

かもがわ出版( 2013/12/26 )

自主避難であろうと強制避難であろうと、国際社会から見れば同じく「国内避難」です。
災害によってそこに住めなくなり、居所を変えざるを得なくなった人が国内に避難することを指します。国連には「国内避難に関する指導原則」があり、平時に私たちが持っている基本的人権は、国内避難している最中も失わないと書いてあります。日本国憲法の前文にも「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書いてあります。これは何も戦時に限ったことではありません。

原発事故後、空気・水・土壌のすべてが放射能に汚染されました。私たちは必要な情報を知らされず、無用な被ばくを重ねました。テレビ報道で東京の金町浄水場の汚染を知り、翌日には福島の水も汚染されていると報道されました。その水を飲んでいた私は、母乳を通じて赤ちゃんにも放射能の被害を与えてしまったと気づいたのです。自分や子どもたちの生命と健康に関する権利が侵害され、「平和のうちに生存」できなくなっていました。
このことは、事故から7年後の2018年3月、避難を余儀なくされた者として、ジュネーブの国連規約人権委員会でスピーチしました。

私たち避難者は「放射能 県境では止まらない」と標語のように言っていますが、原発からの距離によって国に決められた強制避難区域の人たちが「オフィシャルな」避難者・被害者であるかのように扱われるのに対して、自主避難者は避難者・被害者を名乗る嘘つきな人たちで「賠償金が欲しくてやっているんでしょう」と誹謗中傷にさらされます。強制避難区域の人たちも避難の解除命令が出たり、様々な支援が打ち切られたりしています。

事故当時約200万人いた福島県民の中で強制避難も自主避難も県民の中では少数派です。
制度や施策や補償がないのに、県外に出ては生活が立ち行かない。仕事柄、福島を離れることができない人もいます。それでも私たちは被ばくを強いられることを拒否したい。こうやって避難の権利を訴えると、避難していないお母さんたちから「それって、とても痛い言葉なんです。自分が被ばくから子どもたちを守っていないように聞こえる」と打ち明けられたこともあり、ハッとします。

様々な思いを抱えて闘ってきた原発賠償関西訴訟が結審し、9月2日(水)に大阪地裁(松本展幸裁判長)で判決があります。注目してください。

●蝦名宇摩さんのお話(自主避難者、せとうち交流キャンプ<保養>主催者)
蝦名さんは、2011年3月11日は元夫と2歳と5歳の子とともに埼玉県羽生市に住んでいた。

震度5の揺れを体験した時は、民謡教室で三味線のレッスンをしていた(蝦名さんは津軽三味線蝦名流名取・師範でもある)。原発事故による放射能の影響を恐れ埼玉から岡山へ母子避難し、2012年夏から福島の子どもたちを保養のため岡山へ招く「せとうち交流プロジェクト」をスタート。保養とは「食べて遊んで放射能を体外に排出すること」だ。その活動を紹介するドキュメンタリー映画「マイプレイス – 保養という選択」(監督:渡辺嶺也、59分、2025)の予告動画を流した後で、なぜこういう活動をしているのかについて話し始めた。

「私が生まれたのは奄美大島の宇検村というところです、両親は和歌山の生まれですが、村内の無人島・枝手久島に石油備蓄基地の誘致計画が持ち上がり、それに反対しようと両親が移住しました。
父は画家です。反対運動は1973年以降に展開され、84年に計画が撤回されました。仲が良かった村の人たちが計画に賛成する人と反対する人に分かれてしまい、50年経ってもそのしこりは残ったままです。なぜ、この話をしたのかというと、その構造が原発をめぐる賛成と反対、先ほど森松さんが話された避難する・しないの問題と非常に似ていると思うからです。小学校のころ、目障りだったのでしょう、私たち家族を追い出そうという運動が起こされ、村八分になり、学校でもいじめられました。日本社会には、テーマが違っても同じような構造があると思います」

「震災の翌日、テレビがついた時にはすでに水蒸気爆発が起きた後でした。これはもう逃げなくてはいけないと思い、子どもだけでなく、お腹に赤ちゃんがいた妹と義理の妹を含め総勢11人でまず3月14日の夜に福岡に逃げました。機織りをして生計を立てている母の友人夫婦が仕事部屋に布団を敷き詰めて1カ月間、私たちを受け入れてくださったのです。先ほど森松さんの報告にあった通り、水が汚染されて子どもたちに飲ませられない関東の友人からは『水を送ってほしい』と頼まれてペットボトルを何本も送ったりしました。

残してきた夫からは『福島の人が避難していないのに、なんでお前が逃げるんだ』と毎日、電話で喧嘩です。私は帰ることを諦め、祖父のいる岡山に移住しました。もう帰ってこないなら仕送りしないと夫から言われ、仕事を探しました。三味線ができても暮らしていけるわけではないですが、いろんな人が助けてくれて、何とか暮らせています」

「福島にすごく仲の良い友人がいたので、岡山で福島の子どもたちのために何かできないかと模索して2012年夏、瀬戸内市の前島で40人ほどで10日間の保養キャンプをしました。1回目は資金もたくさん集まりましたが、2年目からは「まだやるの?」みたいな雰囲気になり、3年目以降は資金難で、最初は市の補助金が出ていましたが、今は完全に全国からの寄付だけで成り立っています。夏は暑すぎて危険なので、途中から春休みにするようになりました。コロナ禍以降は人数も縮小して期間も短縮して続けています。それで何の意味があるんだという人もいますが、私は常に忘れないでいるんだよという気持ちを伝えるためにも続けたい。参加したお母さんたちで移住してきた人もいます。私自身は保養は100年必要だと思っていますから、自分のやり方でやれることを続けようと思います」

●コメンテーター山根純佳さん(WAN理事、実践女子大社会学部教員、主にジェンダーと再生産/ケア労働を研究)のお話

震災当時私は山形大学にいて、2011年3月27日に出産した後も子連れで山形にいました。
育休後、一人で子育てしながら山形に避難してきた母子の調査をしました。行政が借り上げた住宅(家族が住むような広さはなく1LDKがほとんど)に子どもと避難してきて一人で子育てしている人たちです。学生たちと一緒にお母さんたちの話を聞くと、放射能の恐怖はもちろんあるが、一人で子育てしているつらさが非常にありました。今、自分が風邪をひいたり倒れたりしたら、この子は食べていけない。誰も救ってくれない。孤立して生活している状況がありました。

森松さんが言われたように、自主避難しているお母さんたちは感情的だなど、ネットで悪口を書かれます。原発訴訟で私が陳述した時に、東電側の弁護士が「自主避難したのは福島の一部の人で、ある意味異常」というような言い方をしたのをよく覚えています。
しかし、1歳ぐらいの子は道端で石ころを拾って口に入れてしまったりする時期です。その子たちを福島で育てることはできないと、「選択」ではなく「余儀なく決断」して山形に来ている。そういう人たちと世間の見方との乖離をなんとか言葉で埋めたいと、この間ずっと使命と考えてやってきました。

従来、年間被ばく量は1ミリシーベルトでも危険と言われていたのに、20ミリシーベルト以上だと強制避難区域になるが、それ以外は暮らし続けていい。こういった線引きをする政策、それ自体が非常に残酷で犯罪的だと思います。避難をすると生活が成り立たない。将来の教育費がなくなる。しかし、体の健康はどうなんだ。夫婦で様々な意見の相違も明らかになる。嫁としての立場や地域のしがらみ、代々続けてきた農地があって残らざるを得ない。いろんな人たちがいます。裁判で陳述する時に「選択という言葉を使わないでほしい」と言われました。選択肢が複数あるのではなく、今一番できることを決断しているだけなのだと。

子育てなどのケア労働は「ケアされる本人のニーズを満たすこと」と言われます。本人がどうしたいか、必ずしも言葉で発するわけではない。ひとまず今ある情報の中で良さそう、かつ、自分ができそうなことを決断するしかない。福島に留まった人、避難した人、戻ってきた人、それぞれの結果や効果はわからないけれども、とにかく、より良さそうな今一番できることを積み重ねざるを得なかった。中では、最善を選べなかった自責感や罪悪感を感じている人もおられると思います。ケアする人のしんどさはどこから来るのか? それを説明する言葉が欲しいと思い、原発事故のことも含めて昨年ようやく『ケアする私の「しんどい」は,どこからくるのか』(共編著、勁草書房、2025)を書きました。

ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか: 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために

著者:山根 純佳

勁草書房( 2025/07/01 )

そもそも資本主義社会の中で物を生産する労働力は、成長したり、疲れたり病んでいく身体をケアする労働があって初めて生まれる。このケア労働を支えている自然環境が原発事故などで崩れるということは、資本主義社会を支えているケア労働の土台を切り崩すことなんです。15年経って、自分がこの問題を忘れている、できることをしていないという良心の呵責みたいなものを感じますが、それは内面から出てくるものではなく、歴史的構造的な位置、誰といつどこで何を経験したのかによると考えます。お二人の話を聞くと、本当は国や東電にこそ感じてほしいそれを、私たちは忘却して生きているだけなんだということを思い出させてくれる企画とお話を、ありがとうございました。

●コメンテーター山秋真さん(ルポライター、長期にわたり珠洲原発予定地、祝島などでの原発建設反対運動の取材を行う)のお話
山秋さんは2024年1月の能登半島地震の震源となった珠洲市の原発建設予定地で取材した

『ためされた地方自治―原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』(桂書房、2007)、上関原発の予定地の対岸の祝島で取材した『原発をつくらせない人びと 祝島から未来へ』(岩波新書、2012)などの本を書いている。

ためされた地方自治: 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年

著者:山秋 真

桂書房( 2007/06/01 )

原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ (岩波新書)

著者:山秋 真

岩波書店( 2012/12/21 )

著書で取り上げた珠洲市には、高屋(たかや)と寺家(じけ)に関西電力と北陸電力が原発建設を計画していたが、住民の反対運動で2003年に凍結された。
2024年1月の能登半島地震後、関電の原発予定地だった高屋は約10日間、集落ごと孤立した。その後、何とか脱出して県南部に二次避難していた住民が、4月に所用で高屋に戻るのに山秋さんは同行。
その時に撮影した被害の映像を見せながら話した。
本来、日本海側の高屋は輪島経由で行くのが早いが、その道は不通のため金沢からのと里山街道を通って半島の先を回って高屋に入った。地震から4カ月経っても崩落したり、路面が波打ったり、ガードレールが宙吊りになっていたり、異様な光景が続く。高屋に入ると海が約2メートル隆起。原発予定地の近くだった高屋漁港も隆起して船が接地している。取材当時に山秋さんが身を寄せていた寺も倒壊し、言葉も出なかったという。

「7月に高屋にも仮設住宅ができたのですが、9月に能登豪雨が起きて、またも集落が孤立しました。その被害状況を11月に見に行きました。地震で崩れたところが、土砂災害でも崩れていました。崩れたところが再び崩れて、木の根が上を向いていたり、隆起したところに土砂が流れてきて、もともと高屋にはなかったビーチができている光景を見ました」

「能登半島の水産業は石川県全体でも水揚げが多いが、経費がかかるので集約してスリム化しようという流れがありました。それが、復旧復興の名のもとに加速化しつつあると漁師さんが訴えています」

「絶景街道と言われていた風光明媚な日本海側の海岸線が通れるようになったということで、2025年2月に地元の方に乗せていただいて行きました。右手には崩れた山や人工物で埋まったがれきが見え、隆起した海底に新しい道路をひとまず造って車を通れるようにしていた。壮絶街道とでも呼びたい状況でした。自然の威力、地球の運動の可能性というか、こんなにも地球は動くんだということを圧倒的に視覚で見せつけられる経験でした」

「能登半島地震の後 1年間は工事関係者しか入れなかったので、東日本大震災の時と比べてメディアなどの報道が極めて少ない。何があったのかということがちゃんと共有されていないと危惧しています。山が崩れた半島地域は通常なら通れる陸のアクセスが断たれ、なかなか回復しない。では海からのアクセスは? 私も最初そう思ったのですが、海底が隆起したために船も出せない。それで珠洲の日本海側の方々はそれぞれに孤立してしまった。屋内に退避もできず、もちろん避難もできません。救助も無理。救援もなかなか来ない。すごい装備で自衛隊車両が1回来たら、実態としては全く孤立が解除されていないのに、もう『集落の孤立解除』と報道されてしまう。焦りの声も聞きました」

「振り返って思うのは、原発立地は棄民政策だということです。避難の計画も大事ですが、避難できない状況があり得るということをよくよく考える必要があると思います。特に新設計画がある地域の方、あるいは再稼働の計画がある地域の方には本当によく知っていただきたいと思っています。それらの地域の自然環境は、能登半島の日本海側と酷似しているのです。えげつないと思うのは、都市から遠いところ、それもできるだけ見えないところ、同じ自治体の中でも一番遠いところに原発を立地しようとしていること。地域差別です。その辺りのことを『避難の不可能性』とともに一緒に考えることができたらと思ってコメントさせていただきました」

●登壇者相互に響き合う感想

発表後、登壇者それぞれがお互いの発表を聞いた感想や思いを共有した。

森松さんは「皆さん本当に共通のことを言っている。私が、大阪に避難できたのは、様々な条件があったから。兵庫県生まれで関西が出身地。子どもたちが幼かったことも条件の一つでした。学齢期に達した子を持つお母さんたちは、子どもの友人関係も出てくる。皆さん苦肉の策で分散型の避難をしてきたことを、蝦名さんのお話で思い出しました。
山根さんのお話では、山形に避難したお母さんたちの分析が本当に的確で、もっと聞きたいと思いました。ケア労働のしんどさの観点で『選択と言わないで。選んだんじゃなくて、余儀なくされたのだ』。一つひとつ最悪の中で最善とも呼べない一番マシな、一番生き延びられる方法を決断する連続だったという思い、それを理解されない苦しさは重なります。
山秋さんのお話では、珠洲に原発がなくて本当に良かった。被ばくを免れたのは原発建設を止めてくださった運動のお陰だとつくづく思いました」と話した。

蝦名さんは「上の世代の社会運動が小さなところで仲良くできなくなっていくのを残念だと思ってきました。私たちは巨大な相手に対して、穏やかな気持ちでみんなで一緒にやっていかなきゃいけないことがたくさんある。今日の皆さんの話をきいていたら、それは可能なんじゃないかと少し希望が見えてきた」と話した。

山根さんは「こういう場をもっと持って自分たちが何の上で生活しているのか考えていきたい」。

山秋さんは「森松さんの『被ばくからの自由』という言葉が鍵だと思いました。差別が根底にあって軽んじられ、切り捨てられている。人がいないところに原発を立地しても、何かあったら全国的な被害をもたらす可能性がある。そのことを福島と能登から知己付けられている。それをちゃんと結び付けて語れる力を付けていきたい」と語った。

司会の古久保さんは「本当にいろいろな問題が重なり合っている。地方と都市の関係、子どもに近い存在である女性が常に判断を求められ、決断せざるを得ないことを『勝手にやったんでしょう』と解釈される難しい状況がよくわかった」と結んだ。

●まとめに代えて~上野千鶴子理事長からのメッセージ~

最後にこのイベントを企画した上野千鶴子理事長が発言した。
「2011年は私にとって勤務先の東京大学を退職した年で、震災で最終講義が流れた忘れがたい年です。森松さんの0歳だったお子さんが、15歳になった。それだけの月日が流れました。『毎日が避難の連続』という言葉には胸を突かれました。原発事故で取り返しのつかない最悪を味わい、そのために取り戻せない日常を失った。にもかかわらず、これが教訓にならない私たちの社会っていったい何なんだと思わざるを得ません」

「今回、私が審査委員長を務める公益財団法人パブリックリソース財団の『女性リーダー支援基金~一粒の麦~』で森松亜希子さんが昨年度の受賞者となったことで知己を得て、彼女に触媒になってもらって『WAN的脱原発』をずっと続けてきた私たちとの化学反応を起こしたいと企画しました。3.11から16年目に入る明日という日を前に、このシンポジウムができたことを本当にうれしく思います。
しかしながら突然の衆議院選挙で、日本国民の有権者の多くは原発政策を推進する政権を再び選んでしまいました。そしてその状態で、あれほど責任能力のない東電が柏崎刈羽原発の再稼働をしてしまった。日本という国は、これだけの思いをして、これだけの犠牲を払って、これだけのコストを支払いながら、何も学ばないのかとつくづく思います。
だからこそ、やはり忘れてはいけない。繰り返し何度でも、こういった企画をやっていきたい。そして皆さん、原発避難関西訴訟の判決が出る 9月 2日という日を覚えていてください。司法が行政権力、あるいは立法府の多数勢力に忖度しないでちゃんとした判決を出してくれるのか。私たちも森松さんとともに注視したいと思います」

東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)からのお知らせ
原発賠償関西訴訟は2025年12月24日に結審し、2026年9月2日に判決を迎えます。
【大注目の判決】2026年9月2日(水)10時開廷 #原発賠償関西訴訟 #判決 です
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