「動」と「静」を超えた、未知なる「愉快」への扉

 一味違う「山と女子」の神秘を解き明かす一冊が誕生した。もろもろの欲や世間からしばし離れ、一切の妥協なく山に向かう女性像は、これまでにも存在した。このご時世、少々昔の作品ではあるが、望月玲子の『DONT0 EXCUSE ME! 1~3』をしみじみと思い出す。それは「山ガール」という言葉が生まれる前の作品であり、売れっ子予備校講師・敷島カイの破天荒な山行きと人間模様を綴った、山の「自己責任感」を楽しめる少女漫画である。

 この「自己責任感」について、新田次郎は次のように語っている。「私は山が好きだから山の小説を書く。山好きな男女には本能的な共感を持ち、彼等との交際の中に、他の社会では見られない新鮮なものを見つけ出そうとする。のびのびとしたように見えていて、実は非常なほどきびしい山仲間の世界の中の真実が私には魅力なのである」。

 ここで、本書が描く「山と女子」の立ち位置をより明確にするため、これまでの登山史における代表的な系譜と対比させ、少しばかり道案内を試みたい。

 第一の対比軸は、望月玲子の漫画『DONT0 EXCUSE ME!』の主人公・敷島カイに象徴される「動」の登山である。彼女の山への向き合い方は、都会的で洗練された「お洒落さ」を纏いながらも、その芯には一切の妥協を許さないストイックさが貫かれている。気になる男友達から「君のシェルパ(案内人)として連いていくから、アルプスの水晶を一緒に見たい」というロマンチックな誘いを受ける場面もあるが、彼女の本質は飽くまで「行動的」かつ「目標至上主義」な登山にある。人類初の8000メートル峰全14座完登を成し遂げた伝説的登山家ラインホルト・メスナーに想いを寄せるその姿は、自らの身体能力を限界まで駆使し、高みという困難な目標を攻略することに価値を見出す、自己実現としての登山を体現している。

 これに対し、第二の軸として挙げられるのが、さらに時代を遡った戦前の山岳文学に見られる「静観派」あるいは「逍遥派」と呼ばれるスタイルである。これは、肉体を酷使して頂上を目指す「動的」な衝動から距離を置き、深い森や渓谷の静寂に身を浸して自然を慈しむ、内省的な登山を指す。時代の変化と共に、山を「克服すべき対象」から「静かに味わう対象」へと捉え直そうとする思潮がそこにはあった。

 では、本書『山と女子の今昔ものがたり』で語られる彼女たちの姿は、こうした「動」の挑戦なのか、あるいは「静」の瞑想なのか。はたまた、それらを掛け合わせたものか、あるいは単なるスピリチュアルな癒やしを求めるものなのか。
 結論から言えば、本書が提示する境地はそのいずれの枠組みにも収まらない。

 本書の筆者たちが辿り着いたのは、単なる行動や観察を超え、その土地が持つ歴史や霊性と自己との境界が消失していく感覚である。例えば、平安の遺構で「思考がぷつりと途切れ、微かな響きを受け取る」ような瞬間や、異域としての山に対する根源的な畏怖。それは既存のカテゴリーでは分類し得ない、ヒトが本来持っている「愉快」を、土地との交信を通じて再発見していくという、全く新しい山との関わり方なのである。

京都の変容と平安の残響(執筆:KT/田中香)
 送り火で知られる大文字山を擁する京都東山において、いま一千年の時間軸で見ても類例のない「異変」が起きている。筆者の一人であるKT(田中香)は、近年の地球温暖化に伴う植生の変化が引き金となり、大規模な地形の変容が生じている現場に立ち会った。その結果、地表を覆っていたものが剥ぎ取られ、平安時代初期から存在した「山林寺院」の遺構が、まるで歴史の深層から洗い出されるように現代の白日の下に晒されているのである。

 この山林寺院という存在は、平安文学を読み解く上で、地味ながらも極めて重要な構成要素の一つである。例えば、『伊勢物語』第七十七段には次のような一首が残されている。

「山のみな移りて今日にあふことは 春の別れをとふとなるべし」

 この歌は、京都山科の山中に位置する安祥寺上寺(あんしょうじかみでら)において詠まれたものだ。KTは地元の長老と共にこの聖域を隈なく探索し、千年の時を経た今なお、当時の地勢がほぼ変わらぬ姿で保存されていること、そしてその空間に詠歌の響きさえもが通奏低音のように残っていることを肌で感受するに至った。

 その体験は、極めて身体的な感覚を伴うものであった。彼女がその場所で、ふわりと包み込まれるような、言葉では言い表しがたい安心感に浸っていた時のことである。手にしたフレンチトーストの甘みを噛みしめていたその刹那、不意に彼女の思考がぷつりと途切れた。意識は依然として澄み渡り、クリアな状態を保っているにもかかわらず、頭の中からは一切の言語が消失してしまったのである。そして、その訪れた静寂の中で、彼女はまるで微かな共鳴のような、ある決定的な「何か」を確かに受け取ったのである。

御嶽山の不可思議と屋久島の意志(執筆:HM/杜岡遙)
 一方、かつて噴火のあった霊峰・御嶽山における記録である。ここで深く、かつ「愉快に」行を修めた筆者・HM(杜岡遙)は、自ら直接・間接に数々の不可思議な現象を体験している。その光景は、筆者の言葉を借りれば次のようなものである。「その時。ザバリと唐突に湖面が波立った。水が文字通り割れるように動いて、その真ん中に教会長が姿を現す。その全身はまるで飛び込む前と同じ。雫一つすら滴っていない。そして……。その手には一振りの剣が握られていた。」

 HMはその後、活動の拠点を屋久島へと移すが、そこでも日常的に「不思議」が顕在化している様を観察し続けている。筆者は「生存のため以外で人が山に入り活動することを、屋久島の山は実は許しているわけではない。つまり『開山』されていないのではなかろうか」という、一種の「爆弾発言」とも取れる考察を綴っている。しかしこの指摘は、屋久島の山に深く踏み込む者であれば、例外なく認めざるを得ない真実であると確信させる重みを持っている。

知恵と祈りが交差する異界(執筆:MT/高田みかこ)
 同じく屋久島在住であり、母方に島の血を引く筆者・MT(高田みかこ)もまた、屋久島の山を一歩踏み込めば油断ならない「異域」へと繋がる場所であると定義する。彼女いわく、「島人にとっての山は、知恵と力があれば帰還できる異界」なのである。例えば、近所に住むある男性は、山仕事に赴く際、決して弁当を完食せずに帰宅したという。それは最初から完食しないことを前提とした量であり、万が一遭難した際の合理的な「保険」であると同時に、山という存在に対する切実な「祈り」でもあったのである。

 彼女らの経験や観察、そして気づきは、明らかに「動」でも「静」でもなく、その双方を合わせたものでもない。一言で言えば、それは土地と自分との境界を超えた先にある、本来の「愉快」の(再)発見である。激変する現代に向けて、「本来、ヒトは愉快なものである」というメッセージを遠い過去から発信しているかのようである。

 また、付録のレシピ集はその愉快さを「可食化」したものであり、そう感じるのは私だけではないだろう。本書は京都東山、御嶽山、屋久島という「異域」への扉を指し示す、もう一つのガイドブックでもある。通常のガイドブックと共に、皆様の旅の供となれば何よりである。


◆書誌データ
書名 :山と女子の今昔ものがたり: 第一集 京都・御嶽山・屋久島
著者 :田中 香 ・杜岡 遥 ・ 高田 みかこ
頁数 :121頁
刊行日:2025/12/22
出版社:同期書院
定価 :1540円(税込)

山と女子の今昔ものがたり: 第一集 京都・御嶽山・屋久島

著者:田中 香

Independently published( 2025/12/22 )