
ああ、加納実紀代さんが、2月22日に亡くなられた。ほんとうに悲しい。
もう30年以上前になるかしら、加納実紀代さんの「<眼差し>の母なる天皇制――長谷川三千子という亡霊」(季刊『クライシス』28号、1986年、社会評論社)を読み、大きな衝撃を受けたのは。
そして、私は変わった。
「よい答えは、よい問いからしか生まれない」という。あの頃、私は、自分自身を解きあかすための、よい「答え」を探して、いったい私にどう問えばよいのかと、自らへの「問い」を問いあぐねていた。
読む本、読む本、まるで活字が行間から立ち上がってくるかのように、文脈の一つひとつが、畳みかけるように私の心に問いかけてくる。
そんな中で加納さんの「<眼差し>の母なる天皇制」の一文に出会う。まことに、待っていたとおりの、よい「答え」が返ってきた。
「そもそも<自分のために泣いてくれる人がいる>は、日本人に多い最後の自己確認のあり方だ」「その<泣いてくれる人>の最後の拠り所である<かなしみ>の天皇制が、ひとびとの幻想を誘う」「<慈母としての天皇>という考え方が、日本人の心性を支えてしまっているのだ」と。
ようやく、これまで私が何に縛られ、なぜ自分自身を解き放つことができないでいたかということが、はっきりとわかった。私を呪縛してきたものが、一体、何であったのかという謎が、一挙に解かれていった気がした。私はすでに歪な自己像がどういうものであるかを、うすうすは感じつつあったのだが、その実像を、はっきりと否定的に見ることを、あえて避けてきていたのかもしれない。
差別(性差別)とは、「見えない」ものの中に、あるいは「見えなくされてきた」ものの中にこそ、ある。さらに、あろうことか、それを「見えなく」してしまっているのは、ほかならぬ私自身でもあったのだ。
これではいけない。私の「内なる」天皇制と、きちんと向き合わなければいけない。惚れた弱みで結婚して20年、私と夫との関係が、一人の女と男の自立的で対等な関係ではなかったということ、愛情の名のもとに呪縛された依存的なつながり、その中で私が、ひとりよがりでつくりあげてしまった肥大化した幻想、という自己確認だった。シャドー・ワークを自ら好んで受け入れ、役割意識に埋没する、ある種の奴隷根性もあった。自分を生きていないままに、自分の思いも愛情も、または思想さえも相手に委ねて生きるという関係しか見いだせてこなかったという、無自覚な桎梏への無念の思い。
今の若い人たちから見れば、あきれるほどの古い思想だけど、当時、40代半ばの私にとって、それは一刻も早く、解き放たれなければならない切実な課題だった。
さらにもう一つ、三島由紀夫の『英霊の聲』は、二・二六事件の青年将校と特攻隊の若者たちの天皇への恋闕の情、献身的な天皇への片思いが、天皇自らによって断罪されたことへの三島の悲嘆の書であったことを、田坂昴は『三島由紀夫論』に書いていた。
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」「この二度の時、この二度の時、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を失わせ玉い、二度目は国の魂を失わせ玉うた」。
今年4月30日の天皇退位と5月1日の皇太子の即位を前に、「日本会議」を中心とする右翼は、このような天皇を指弾する論旨の故に、あの三島由紀夫でさえ、排斥する動きがあるとも聞く。
人間の人間に対する関係とは、自分の思いや思想、愛情を、もう一人の人間に委ねるものであってはならない。豊かで対等な関係を紡がない限り、とても天皇制を撃つことなど、できないのだ。どこまでも「他者」を「他者」として見ようとしない天皇に、報われない愛を捧げる、その見返りは、たった一つの恩賜のタバコにしかすぎないのか。
ようやく見つけた「答え」を、意を決して夫に告げると、じっと聞いていた夫は、「君のいう天皇制を成立させるには、もう一つの要素がいる。それは僕にとっても同じ天皇制だったということだ。そういう歪な関係は、やっぱり間違っているんだろうな」と言い、そのあと、つぶやくように「それにしても僕は君に恩賜のタバコ一つ与えてこなかったかもしれないな」と、ぼそぼそといったような気がした。
その2年後、二人で離婚を選んだ。46歳、まだ若かった私。そして私がいちばんきれいだったとき。こんなことを書くから「あんたはフェミニストの風上にもおけない」と、いつも叱られるんだけど。
(個人的な「内なる」天皇制については、自著『関係を生きる女(わたし) 解放への他者論』(批評社、1988)を、ごらんあれ)。
もうすぐ春。季節は忘れずにやってくる。娘や孫の三組のお雛さまも片づけた。母と叔母の、亡くなった長姉の五段飾りのお雛さまは、まだ熊本にある。小さな能舞台に立つ高砂のシテと、細かな塗りのお道具類だけを京都にもってきて雛壇に飾った。はるか百年前のものだ。


1月末から3月までひと月半、北海道上川郡新得町トムラウシ温泉と然別峡かんの温泉へ湯治にいっていた男友だちが、やっと京都に戻ってきた。俗世を避け、ひたすら読書と温泉三昧の日々。まあ、気楽でいいなあ。
5月の10連休に向け、NHKをはじめ、皇室報道が、かまびすしく、かしましくなることは間違いない。憂鬱だなあ。天皇を「象徴」とすることにより、「天皇制」の差別構造は、闘いの標的から見事に免れ、ますます「見えにくく」されてゆく。
30年前の天皇代替わりの時、「反天皇制連絡会」の集会で加納実紀代さんが講演をされた。まだ40代の若い頃かな。それまで誰も問うてこなかった「フェミニズムからの天皇制」論を、鮮やかな切り口で語られた、あの声と姿を、今も懐かしく思い出す。加納さんが逝かれて、ほんとに悲しい。
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