エッセイ

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それでも、ケープ・コッドで待っています キース・ヴィンセント

2013.06.27 Thu

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.私が和子さんと最初に出会った正確な機会を憶えておりませんが、1995年か1996年に、筑波大学に近い彼女のアパートに出かけたのは、しっかり憶えています。

河口和也さんや新美宏さんたちを含むゲイの活動グループ「アカー(OCCUR)」の幾人かと一緒でした。我われは、一日をそこで過ごし、床に腰を下ろしてピザを食べ、タバコを吸いまくり、日本で、日本語でどのようにして、クイア理論事項を実践していけるか、何時間も話し合いました。

当時これは我われにとって大事な問題でした。というのも、クィア理論が、日本の学術出版において、物好きのようなものとして始まりかけていたものの、活動家集団から、さらにクィアグループからさえ完全に孤立していたからです。

和子さんは、当時日本における唯一の研究者であり、クィア理論やフェミニストのルートに精通していただけでなく、それと活動を結びつけることも理解していました。アカーの友人や私と同じように、彼女は、その結び付きを日本社会における異性愛規範とミソジニーに抵抗するモードとエンパワーメントの基盤として見ていました。1997年に、「現代思想」にレズビアン・ゲイ研究の特集を出すために、一緒に仕事をしました。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.1995年から1996年にかけて、我われがおこなったクィア理論のワークショップを支持し、またよい参加者でした。私にとって彼女は、日本における政治的な関わりおよび知的に厳格であるクィアフェミニスト理論を確立したもっとも重要な人でした。

私が和子さんと最後に会ったのは、2010年3月で、そのとき、私はパートナーのアンソニーと東京の彼女の家の近くで夕食をともにしました。2004年お茶の水女子大学での「21世紀COEプログラム ジェンダー研究のフロンティア」と名づけられた5年にわたるすばらしいプロジェクトに招聘されて以来、彼女と会っていませんでした。

その後2009年にニュージャージ州ラトガーズ大学における、日本文学研究学会で「日本におけるイヴ・セジウイック」のパネル討論に一緒に参加する予定でしたが、病気のためにキャンセルになりました(訳者注:高血圧症のため)。

セジウイックを偲ぶこのパネルについて、話し合っていた頃にはその後まもなく和子さんまで失うことは考えてもいませんでした。2010年に会った時には、ボストンに来てケープ・コッドのプロヴィンスタウンでアンソニーや私と一緒にすごすことを話し合ったものです。当時私も翻訳をしており、それを「労働・休暇」にするつもりでした。しかし悲しいことにそれもすぐに病気のためにキャンセルされました(訳者注:今回の病気)。

電子メールが来て、「本当に残念。私もあなたとアンソニーと一緒にすごし、おしゃべりをし、散歩し、街中をぶらぶらし、スピバックを訳す(!!)。楽しいことでしょう。楽しみと仕事と!!」とありました。

いま、和子さんとのやりとりや20年にわたる交流を振り返り、思い起こしてみると、最大のことは、彼女が「楽しみと仕事」の両方をものの見事にやってきたということでしょう。彼女は仕事以外にも多くの楽しみをもっており、仕事は他者にたくさんの楽しみを与えました。

困難で緊急の問題についてさえ、彼女は静かな声と明るい笑顔で、ゆっくりと優しい話しかたをしたことを私は憶えています。二人とも世界情勢にいかなる不満を抱えていても、和子さんと話した後で、私は元気をもらい、楽観的になれたように感じたものです。彼女と知り合ったことは私にとって宝物だし、とても残念でなりません。

(河野 貴代美 訳)

J.キース・ヴィンセント

ボストン大学 近代言語・比較文学部 日本・比較文学科 準教授

原文は以下からお読みください。

http://worldwide-wan.blogspot.jp/2013/06/eulogies-to-kazuko-takemura-9-j-keith.html








カテゴリー:竹村和子さんへの想い

タグ: / 竹村和子 / フェミニスト / クィア