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受難の美化は変革につながらない    岸野令子

2010.06.03 Thu

映画「プレシャス」(リー・ダニエルズ監督) 
                          
 ヒロインはアフリカ系アメリカ人の太った女の子である。
 1987年、ニューヨークのハーレムに住む16歳の少女クレアリース・プレシャス・ジョーンズ(ガボレイ・シディべ)は、実父からたびたびレイプされた。父の子どもを産み、今また2度目の妊娠中。母親(モニーク)は、そんな娘を虐待し、プレシャスは空想の世界に逃避する。学校を追われ、新たにフリースクールに行き出したプレシャスは、よき先生(ポーラ・ハットン)と出会い、自分の思いを書き始める。 父は家を出ており、最後はHIVで亡くなったということがわかる。そんな中で、プレシャスは出産し、看護師のジョンやクラスメイトにも助けられ、前向きに生きようとする…。

 辛い話である。最後に母親は、なぜ娘を虐待したか〈私には夫しかいない。それを娘が盗った〉からだと涙ながらに語る。実際は娘が誘惑したのではなく純然たるレイプであるのに、そのようには見ない。プレシャスはそんな母親を許そうとしているようだ。

 映画を見た後、この作品がなぜ、私には勇気や希望を与える映画にならないのか、友人と話し合った。これはヒロインが試練を受けることで聖人になるというキリスト教的な考えによる〈受難の美化〉ではないかと思った。この映画では家父長的思想にとらわれている父母の問題は追及されず、もっぱらプレシャスの我慢が清く尊いものとして賞賛されているように見える。そこには変革につながる思想が見えない。

 野村修著「バイエルン革命と文学」(白水社・1981年)に、こういう箇所があった。
〈ブレヒトの『水死したむすめについて』の最終連の表現は、まったく独自のものである。ここには、悲劇性をどのようなかたちであれ美へ救出しようとする態度は、もはやない。オフェーリア伝説と、かれ自身によるエーヴリン・ロウ伝説とを解体するなかで、かれはかれの哀悼のかたちをさぐっている。〉(24P 「水死したむすめの歌」の章)

 ブレヒトは、これまでのオフェーリア伝説などの悲劇性を美化する詩を否定し〈自覚的な出発の詩〉(25P 同)を作ったのだ。(この「水死したむすめ」は虐殺され、遺体が川に投げ込まれたローザ・ルクセンブルクのことでもある。)
 
 受難を美化し、悲劇性を強調することで観客は涙を流し、カタルシスを得る。そういう作品は、現状を肯定するだけで、変革への力にはならないと思う。

映画『プレシャス』公式サイト → http://www.precious-movie.net/

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