いつも不思議だなと思う。言葉は言葉をつないで糸のように絡まりあい、やがてもう一つの言葉が生まれて、その言葉を受け止めた人だけでなく、周りの人にも伝わって、やがて本が生まれてくるのだと思うことがある。

 前々回のエッセイ「『ゆっくり歩く』を、ゆっくり読もう」(旅は道草・193)で、小川公代さんが、難病を患われた母上にハン・ガン著『少年が来る』(井手俊作・訳、CUON)の主人公トンホの言葉を語り伝えて母上が立ち直られ、また前回のエッセイ「「女+フェスティバル」2026に、元気をもらった」(旅は道草・194)で、斎藤真理子さんが、ハン・ガン著『別れを告げない』(斎藤真理子・訳、白水社)を採り上げ、「韓国の女たちは決して過去を哀悼で終わらせない」と語る言葉に勇気をもらって、「ぜひ、ハン・ガンの本を読まなくちゃ」と思った。

 ハン・ガンは2024年10月10日にノーベル文学賞を受賞。「歴史的トラウマに立ち向かい、命のもろさを浮き彫りにする強烈な詩的散文」が評価されたという。しかも50代の若さで。2024年12月7日、ストックホルムで行われたノーベル文学賞受賞記念の挨拶「光と糸」の中で、ハン・ガンは、これまでどんな小説を書いてきたかを語っている。早速、ハン・ガン著/斎藤真理子訳『光と糸』(河出書房新社、2025年12月)を買って読む。

 1980年5月の「光州事件」(韓国での正式名称は「五・一八光州民主化運動」)の4カ月前まで9歳のハン・ガンは光州に住んでいた。後に光州で起こった虐殺事件の900人の証言を毎日9時間ずつ1カ月かけて読み、他の国家的暴力に関する資料もあわせて、2014年に『少年が来る』を書き上げる。

 資料を読み込む中で、「現在が過去を助けることはできるか?」「生者が死者を救うことはできるのか?」という問いかけが、やがて「過去が現在を助けることはできるか?」「死者が生者を救うことはできるのか?」と、「主語と目的語が逆転していった」とハン・ガンは語る。

 さらにハン・ガンは、2017年から2年ほど済州島とソウルを往復して、1948年に起きた「済州島四・三事件」の虐殺生存者の証言を読み、資料を駆使して、7年をかけて2024年に『別れを告げない』を書いた。今、映画「済州島四・三事件 ハラン」(監督/ハ・ミョンミ)も上映中だ。

 「傷と痛みと回復の過程を描く作家。それを通して人の尊厳のありかを示す作家。人間であることが耐えられないような残酷な歴史に分け入って、人類の小さな声を聞き取るために努力を重ねてきた作家。それがハン・ガンだ」と、訳者の斎藤真理子さんが『光と糸』「あとがき」に書くように、まさしくその表現がノーベル文学賞に値するものだったのだと思う。

 それはまた偶然にも、2024年12月3日、韓国の元大統領・尹錫悦の「非常戒厳」宣言の政変後に沸き起こった多くの市民による元大統領への退陣要求運動の支えにもなっていく。「1980年5月が、2024年12月を救った」を合い言葉に。 そしてハン・ガンのノーベル平和賞を祝い、出身地光州市では「ハン・ガン! ありがとう! 五月はいまや世界の精神!」の垂れ幕が掲げられたという(同じく『光と糸』「あとがき」より)。まさにこれは「過去が現在を助けて」「死者が生者を救うことができた証」ではないか。

 「小説を、私は身体を使って書いている。見て、聞いて、匂いをかぎ、味わい、柔らかさ、温かさと冷たさと痛み、心臓の鼓動とのどの渇きと空腹を感じ、歩き、走り、風と雨と雪を浴び、手を取り合い、こうしたすべての感覚のディテールを使用する。限りある生命を生き、また温かい血が流れる体を持った私が感じるこれらの生き生きとした感覚を、電流のように文章に吹き込もうとし、その電流が読む人たちに伝わったと感じたときには驚き、感動する。言語が私たちをつなぐ糸だということ、生命の光と電流が流れるその糸に私の問いが接続していると実感する瞬間に」とハン・ガンは受賞の挨拶文を結んでいる。いかにも詩と小説を結び合わせる「言葉の力」が溢れる文章だ。

 だからこそ、「世界はなぜこれほど暴力的で、苦痛に満ちている?/と同時に、世界はなぜこれほど美しいのか?」という両義的な問いを問いかけるハン・ガンの本を、もっともっと読んでみたいと思った。

 そしてもう一人、言葉に魅せられた詩人がいる。茨木のり子著『自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ』新装版(選・観賞解説/高橋順子、小学館、2009年)と茨木のり子著『ハングルへの旅』新装版(朝日文庫、1923年)を手にとって読む。

 「りんとした声、歯切れのいいひびきが、どの詩の中にもみなぎっている。それは、挫けがちの自分を、そして他者を励ましながら、明るいほうへ、快活なほうへ手を差し伸べる、強靱でしなやかな精神から迸りでたものである」と選者の高橋順子は「時代を超えて、りんと」に書いている(『自分の感受性くらい』「はじめに」より)。

 のり子は1926年生まれ。1945年、敗戦時は19歳だった。5年前に98歳で亡くなった私の母は彼女より3つ年上の同じ世代。母は、ままごとやお人形遊びが大嫌い、男の子とケンカして泣かせてばかりのオテンバだった。意気地なしの私とは違って、今の時代、あの母が生きていたら、きっとキャリアウーマンになっていただろうな。

「男の子をいじめるのは好き/男の子をキィキィいわせるのは大好き/今日も学校で二郎の頭を殴ってやった/二郎はキャンといって尻尾をまいて逃げていった」(「女の子のマーチ」より)

「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」(「自分の感受性くらい」より)

 こんな詩を読むと、ひよわな志しか持ち合わせていない私なんか、「ばかものよ」と厳しく喝を入れられて当然と思うのだけれど。

 そして茨木のり子は最愛の夫を亡くした翌年の1976年、50歳の時、朝日カルチャーセンターで「ハングル講座」を学ぶことになる。「隣の国のことばだから」「隣の国のことば――それはもちろん、南も北も含めてのハングルである」「はじまりが半分」と断言して。

 そして日本の侵略時代、「(日本が)朝鮮語抹殺政策を徹底させながら、遂にたたきつぶせなかったことは、日本が敗退してすぐ、ハングルが息を吹きかえし芽ぶいてきたことでもわかる。見えないところで脈々と地下水のように流れていたのだ」と書く。

 「儒教をとり入れて500年、長幼の序、実に厳然たる国である。一歳年上でも、敬語を使わなくてはいけないし、それを怠れば世間は黙ってはいず社会的制裁がある」と、ハングルを学ぶ中で茨木のり子は、彼の国の文化を再確認していく。

 ハングルと日本語は、主語・目的語・述語の語順の並びは同じだが、言葉づかいの違いは、さまざまにあるようだ。本書はハングルを学ぶ難しさと楽しさが詳しく書かれている。また現地を訪ねる「旅の記憶」も実に味わい深い文章だ。

 最後の章「こちら側と向こう側」の終わりに書かれた「尹東柱」の詩に、ジンと胸を打たれる。尹東柱は1945年、敗戦のわずか半年前の満27歳で、福岡刑務所で獄死させられた詩人。立教大学と同志社大学で学んだクリスチャンでもあった彼は独立運動の嫌疑で下鴨警察署に掴まり、福岡へ送られた。同志社大学の今出川校地の中庭には尹東柱の墓碑があり、いつも供えられている花々が絶えることはない。韓国からの修学旅行生たちも、よくそこを訪れるという。

 1984年、尹東柱の全詩集『空と風と星と詩』(記録社)が伊吹郷氏の訳で出された。朝鮮語弾圧の時代に敢然とハングルで書いた詩を手紙といっしょに送られてきた友人が、それを甕(かめ)に入れ地下深く隠して保存していたために辛うじて残されたのだという。あと半年、生き存えていたら解放後の母国で大いに活躍した詩人であっただろうに。あまりにも早すぎる死を無念に思う。


 一方、はるか昔の日本の鎖国時代、朝鮮王朝から江戸へ「朝鮮通信使」が、200年間に12回も公式使節団として漢城(ソウル)と江戸の間を往復していたという。李氏朝鮮と江戸幕府を仲介したのが対馬藩で外交官として活躍した近江出身の雨森芳洲だ。幼少より木下順庵に朱子学を学び、新井白石と並んで「詩の白石、文の芳洲」と称された。木下順庵の推挙で対馬藩へ士官。朝鮮語と中国語を深く学んだ学識と教養で対馬藩「朝鮮方佐役」に抜擢されることになる。

 雨森芳洲庵の名物館長・平井茂彦著『雨森芳洲』(2004年11月)に詳しく書かれている。

 「通信」とは「信(よしみ)を通(かよ)わせる」という意味。雨森芳洲が記した『交隣提醒』の五十四条には「誠信と申し候は、実意を申す事にて、互いに欺かず、争わず、眞実を以って交り候を、誠信とは申し候」とある。この言葉を今の日本の政治家の面々にぜひ読ませたいものだ。日朝・日韓関係しかり。日中関係しかり。
(奥びわこに「雨森芳洲庵」を訪ねて(旅は道草・58)やぎ みね)2014年11月20日


 そして、もう一人の詩人・金時鐘著『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』(岩波新書、2015年)も忘れられない1冊。第42回(2015年)大佛次郎賞を受賞。

 金時鐘は1929年、釜山生まれ、青年期、済州島で育つ。日本統治下、日本語をすすんで学ぶ。朝鮮半島は1945年、解放と独立。米ソ冷戦下の1948年4月3日、「済州島四・三事件」が起こり、金時鐘は、若い「サフェジュイジャ(社会主義者)」として参加する。同年8月15日「大韓民国」、9月9日「朝鮮民主主義人民共和国」が38度線を挟んで樹立。翌1949年、金時鐘は「父の、あらんかぎりの奔走により」、日本へ脱出する。以後、大阪・猪飼野で暮らすことになる。1998年、金大中大統領就任を機に「朝鮮籍」だった同氏に臨時パスポートが発給され、49年ぶりに訪れた済州島で父母の墓にぬかずくことができたという。
(信(よしみ)を通(かよ)わせるという希望(旅は道草・73)やぎ みね)2016年2月20日

 3月末、娘と孫娘は友だちの母娘と共にソウルへ2泊3日の旅に出かけた。行きはエアソウル、帰りはアシアナ航空の格安便で往復。円安のさなか、いろいろと工夫して今どきの若い人向けのソウルをたっぷり楽しんできたようだ。私はお留守番。

 去年の夏、10年のパスポートをとったから、もう少し円安が収まったら海外旅行に飛び立つからね。まずはお隣の国へ。さらには、かつて何度か旅した中東やヨーロッパの国々の思い出の地へ、必ずや再訪するからね。

 言葉と言葉は糸となり、たとえ国は違っても、人と人を結ぶ心の糸は、きっときっと細く長くつながってゆくことを信じて。