シネマラウンジ エッセイ

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【特集:在日・女性を生きる②】「ぼらっぴ」23年を振り返って  ぱんちょんじゃ

2010.06.06 Sun

「『ぽらっぴ』ってどういう意味?」とよく質問される。待ってましたとばかりに「『女性解放』の色だよ」と答える。

 奴隷のような生活を強いられた黒人女性が、一人の人間として目覚めていく姿を描いたアリス・ウォーカーの「カラーパープル」の映画を見て、衝撃を受けた。原作も読んで、「カラーパープル」が女性解放の色だと知った。映画が劇場で好評を博していた1985年ごろ、在日女性のための運動体をつくろうという動きが始まった。そして1986年11月に東京本部が、翌1987年4月には大阪本部が結成された。結成と同時に会報の創刊号が出されたが、まだ名前は決まっていなかった。そのときひらめいたのが、「カラーパープル」だった。急いで日韓辞典をめくると、「うす紫=・エ・壌ケ宦iぽらっぴ)」とあった。その響きも素敵だった。「ぽらっぴ」が私たちの会報の名前になった。

 「女性解放」と言ってもスローガンだけで、まだまだ中身は空洞だった。多くの在日女性の支援と期待に支えられながら、よちよち歩きの出発だった。それまでの男性中心の民族運動から、女として自立した運動をめざした。

 タバコの煙の中で夜中まで会議をしたり、酒を酌み交わしながら夜遅くまで激論を交わしていたのは、いつも男たちだった。娘が夜毎ほっつき歩くと、親に殴られて顔に痣をつくってやってくる友がいた。エプロン姿のまま家を抜け出してくる友、銭湯に行ってくると洗面器を持ってきては、水道の水で髪をぬらして帰る友に、いつ風呂入るんやろうと心配したこと、そういう私は編み物教室に行ってくると、毛糸玉の詰まったバッグをいつも持ちあるいていた。母に約束したカーディガンは、とうとう編みあがらなかった。

 それでも、先頭に立ってマイクを握るのはいつも男だった。集会場でチマ・チョゴリを着て受付に座り、参加者を笑顔で迎えるのは女の役割。なんか違うと思いながら、声をあげられなかった。湧き上がる疑問に、今はそんな個人的なことを言ってる場合かと、自分を納得させ、一生懸命頑張った。気づいたらいわゆる婚期をとうに過ぎていた。幹部だった先輩が声をかけてくれた。「そろそろ結婚を。」涙が出た。嬉し涙ではなく、悔し涙だった。

 結婚したら、もっと自由に、思い通りに運動ができるなんて、幻想だった。結婚した先輩や友人は家事や育児に追われ、夫の運動を支える現状に不満をもっていた。

 軍事独裁政権による弾圧が日増しに厳しくなる中で、韓国で女性たちは民主化闘争の前面に躍り出て闘っていた。私たちも女性として、自立した女性団体を持たなければならないと考えるようになり、また時代の流れにも乗って、「在日韓国民主女性会」が結成された。多くの女性たちが集まってきた。下の子をおんぶして上の子の手を握り、電車を乗り継いで、あるいは自転車の前と後ろに子どもを乗せて、駆けつけてくれた仲間たち。会議は子どもたちの泣き声や叫び声にかき消され、なかなか前に進まない。だけどみんなの目はきらきらしていた。

 ―あれから20余年、いろんなことがあった。
今振り返って、あのときめざした自立した女の運動をつくれたか、女性解放に向けて一歩でも二歩でも前進できただろうかと、自問自答する。たくさんの在日女性の期待に応えることができたかと問われれば、まだまだ道半ばである。

 23年といえば、生まれた子どもは立派な成人だ。次の世代にしっかりバトンタッチできるだけのものを、私たちは築いてこれただろうか。

 今こそ自分の足で、大地をしっかり踏みしめて立ちたいと願っている。

(「ぽらっぴ」 2010年3・4月合併号より転載)

編集局より:「ぽらっぴ」とは在日韓国民主女性会大阪本部が結成以来20余年にわたり発刊してきたニュースレターです。このたび246号をもって休刊されることになりました。

カテゴリー:ちょっとしたニュース / 新作映画評・エッセイ

タグ:女性運動 / 民族差別 / ぱんちょんじゃ / 在日女性