2012.08.14 Tue
監督のいわく「本作は、イランの女性たちへの賛歌だ。フェミニスト映画を意図したわけではないが、料理と料理に関することに一度は向き合わなければならないと思っていた。台所は、私の母が30年以上も過ごした場所だ。そして、私は、台所の細部がどうなっているか、今までほとんど知らずにいた」
これは実に複雑な、かつ巧妙な言い回しに聞こえる。台所で料理をするのが常に女性であり、彼女たちは絶えずその場所に縛られていて(一日中台所にいる、と義母)、そのような女たちへの賛歌というなら、このような事態を賞賛しているとしか聞こえない。ところが一方で、男である監督が台所の細部を知りたい、料理に一度は向き合わなければいけないと決意してこの映画を作った、と言う。おまけにフェミニスト映画を意図したつもりはない、と。フェミニスト映画という言葉(だけだけれど)には言及があり、それには少しのスパイスもきいている。
で、結論をいえば、まいったなぁ(評者は食いしん坊)、でもおもしろい、である。
監督の母(主婦歴40年―ラマダンの豪華料理)、義母(主婦歴35年―ドルマとクフテ)、妻(現代女性代表-カン詰めシチュー)、妹(双子を育てながら大学に通う―ナスの煮込み)というふうにさまざまなタイプや世代の女性が出てきて、異なった家庭の台所にカメラは出没するが、どこでも設定された場にじっとして動かない。カメラのアングル内で料理の過程や料理人を写し、出てくる女性たちはおしゃべりをしながら料理の説明もする。そして食べる。それだけである。もちろん片付けは女性の仕事である。
女性にはそれぞれの個性があり、巧まざるユーモアも出てこれがおもしろい。義母は、このごろは何でも機械だけれど、手ほど重宝なものはない、と言い、「大丈夫、手は洗ってあるわ。2年前だけれど」とか。妻は友人招待しての食事会に、おいしいと言われたシチューが実はカン詰めであることを明かし、夫である監督とちょっとした口争いもする。双子を育てながら大学に通う妹は、台所に出入りする男の子をたいして叱らず、ほんのちょっとした手伝いも無視する彼らをほったらかし。これでは思いやりのない子どもに育つのではないか、と心配せざるをえないが、彼女はもくもくと料理と片付けをこなす。夫も手伝いどころか、妻の苦労にはまったく気がついていないようだ。これでは大学に通ってどれだけ大変かなと心配になってくる。概してちょっと顔を出す男性はカメラに正面を向いて、要は、料理は家族への愛情のしるしだということを示唆する。だが、彼らとて時代の変化は充分に認識していて「(妻を)大事にしている」と言うが、本音はわからない。男性たちは本作品では料理の添え物的存在のようで、かつてのCMにあった「私作る人、ぼく食べる人」の後者を任じているようだ。
まるでTVの料理教室のように次からつぎへと料理の仕方、レシピが現れ(暗闇でレシピをメモることは不可能だが)、別の食卓ではラマダンあけの豪華な食事が並ぶ。TV料理教室との違いは、本当の台所で作られる料理のリアルさはルアルな食欲をそそるものだと感嘆。どれもこれも味わってみたくなる垂涎ものである。食道楽には必見の作品であるが、空腹時はさけることをお奨めする。
「料理に向き合わねば」と監督は言うが、実際に何に向き合ったのか。褒めすぎを承知で言えば、やはり女の生き方、家族のありかたではないだろうか。「『フェミニスト映画』を作ったつもりはない」のだかそこには既述したように若干のスパイスもはいっているようだ。画面が黒くなって終わったかと思った直後、出演者のうちの幾組みかのカップルの離婚が、ただ単にそう記される。監督のカップルも離婚。なんともいえない苦笑でジ・エンドである。
タイトル:イラン式料理本
監督・脚本・製作:モハマド・シルワーニ
主演女優:なし(出演者全員)
主演男優:なし(出演者全員)
スティール写真クレジット表記:©2010 Mohammad Shirvani. All rights reserved.
公式サイト:http://www.iranshiki.com/
公開日時・場所:9月15日より岩波ホールほか全国順次ロードショウ
カテゴリー:新作映画評・エッセイ