上野研究室

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上野千鶴子『女ぎらい』書評セッション ユキ

2012.10.09 Tue

2012年9月22日(土)

ラブピースクラブ スタッフ ユキ

 

上野千鶴子『女ぎらい』書評セッション

 

発表者について

ラブピースクラブは1996年に北原みのりが始めた女性だけで運営されるセックストーイショップです。(何のご縁か、東大の裏にあります)おそらく、数ある「女性向け」セックストーイショップの中で唯一女だけで作り上げるお店です。オトコスタッフもオトコの資本も入っていません。そんなお店で朝から放送禁止用語をしゃべりながらまじめに働いているスタッフのユキです。Facebook、ツイッター、メルマガなどで情報を発信しています。

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※注意※

仕事が仕事なので、一般の方がびっくりするような淫語をぽろっと言ったりします。気にしないでください。問題は慣れです!!ラブピスタッフとして今日はお話するので、主にエロの話をします。

 

女はきらわれている!

いかに女がきらわれているかを一般書として書く

ホモソーシャルな関係に男が参入するためには、女をモノに(所有・客体化)することが必要である。そしてそのホモソーシャリティはホモフォビアによって維持される。このイヴ・セジウィックの提示したホモソーシャリティという概念の中核を成すミソジニーがありとあらゆる現象の中に見られるということを、文字通り嫌になるまで書きつづった本。ここまで正直に、いかに人びとが女ぎらいかをつづったものは今までなかっただろう。ましてや、一般書としては!しかもこれをおひとりさまで一般に「上野千鶴子」が知られた後にやったから爽快である。もしかしたらフェミニズムの看板や社会学の看板ではこんな本手にも取ろうとしなかった人が、「間違って」手にとっていったかもしれない!そしてどんなに女が嫌われているかを、感じ取ったかもしれない。それさえ伝われば政治的には大成功ではなか、と思ってしまう。

ホモソーシャルな社会の敵は「所有できない女」

事実、オンナは嫌われている。客体化できない女は特に。例えば、女を愛する女はヘテロ男には所有することのできない相手だ。女が女に欲望する、またはレズビアンだ、と名乗ると少なくない男が「僕も混ぜて」と言いよってくるのは、(ただ気持ち悪いだけでなく、)直感的に所有できない女をなんとか客体化しようとする男の支配の試みなのではないかと思う。しかも、フェムな女2人やブッチな女2人のカップルなどは彼らには決して想像できない[i]。女カップルでもどちらかがブッチ、どちらかがフェムであればヘテロ男の大半は納得する。なぜならブッチは彼らにとって「ニセの男[ii]」であり、フェムなレズビアンならばブッチに代わって所有できるはずだと考えるからだ。(もちろん、こんなことが言語化できている男などいないし、そもそもブッチが主体でフェムが客体などという見方は、ヘテロ男の都合のよい解釈でしかなく、彼らの脳内でしか成立しない)男のAVなどでフェムな女同士のからみはよく見るが、ブッチな女のからみなど見たことがない。そのことからも、ヘテロ男が(所有できると)思う種類の「オンナ」であれば、男の性的満足のために存在しても許せると思っていることがわかるような気がする。

 

性のダブルスタンダード

 ダブルスタンダードの今・むかし

「愛しているからセックスできない?セックスしてしまうと愛していないことになる?という性の二重基準から来たディレンマは今でも生き延びている」と上野は言う(2010: 48)。しかし、今や愛していてもいなくてもセックスをする理由になるように思う。愛しているからセックスする、愛していないからセックスする、とにかくセックスが過剰なのだ。(後述するが、これはセックスの回数が増えているとかそういうことではない。あくまでの文化レベルでのセックスの可視性のことを指している)それでは、「愛しているから」のセックスと「愛していないから」のセックス(なんて陳腐な響き!)を分けるのは何か。避妊だ、と私は思う。女性が持つことを想定して作られたコンドームは、今やたくさんあるが、その草分け的存在は「グラマラスバタフライ」シリーズだろう。女の自衛をはっきり商品として示したのだと、発売当初は感動したものだが、最近はどうだろう?愛しているならキチンと避妊してくれるはず!というメッセージを投げかけ、コンドームの使用を「ラブ活」と呼ぶ広告に、「女の自衛」は見えない。自衛のために、苦肉の策として「ラブ活」などと言い、言いにくいことを少しでも言いやすくしている女の知恵かもしれないが、そもそも「言いにくい」状況を打破しなければ女の知恵の無駄使いとしか言いようがない。避妊してくれるかどうか、で愛をはかる現代の価値観とセックスの有無で愛をはかる過去の価値観と、女のセクシュアルヘルスから言えば、現代の方が危険になったような気がしてならない。もちろん、避妊の技術が向上したからこそこうした選択が可能になったのだが。愛とセックスは関係ない。愛と避妊も関係ない。どうであれ、女の身体は女のものというメッセージを再度発信する必要があるだろう。でなければ性の二重基準はあらゆる論理で女の首を絞め続ける。

 

性的弱者論

 性的弱者論=性的弱男論

上野が指摘するように性的弱者論にはジェンダー非対称がある。性的弱者について語る時は常に「男がセックスにありつけないとはどういうことだ!(みんなぼくちゃんのいうことをきけ!)」という幼稚な怒りが根本にあるような気がしてならない。例えばホワイトハンズ[iii]は障がい者・高齢者を射精させることを「射精介助(・・)」と言って福祉の一環として位置づけようとする。しかし、それはあくまでも「射精介助」なのだからやはり女の「弱者」をどうするのかには一切触れない。また、これはあくまでも「射精をしたい」という利用者の問題を解決するサービスだ(セックスワーク・サミット2012資料:16)とするが、実際の介助者は女性のみである。「射精をしたい」だけならば他の介助行為と同様に介助者の性別は関係ないはずだ。手で行う必要もない。男を射精させるための道具なら数百円でどこでだって買える。それをわざわざ女に(手で!)やらせるところに、「射精」を超えたものへの要求が見え隠れする。女は男の性的欲求を満たすべきである、という男の論理を保つという要求だ。さらに、ここにはホモソーシャリティの問題も関わって来るだろう。ホワイトハンズの幹部や利用者は男だ。男同士の絆で成り立っているということは、他の一般企業と同様である。男同士の絆のあるところに、ホモセクシュアリティはあってはならない(なんたるホモフォビア!)。ということは、男の介助者が男の利用者を射精させてはマズイのだ。男同士の絆の中では、女は常に性的客体であるからして、女の「介助」を利用して男の性的欲望を満たすのは「当たり前」である。この男の「当たり前」がなぜ女には当たり前でないのか、そこにある強烈な性の二重基準に向き合わなければ、性的弱者論に何ら新しさはない。

「売買春は一種の強姦」?

さて上野は「性的弱者に対して『コミュニケーション・スキルを磨け』と発言するだけで、批判の対象となった」(56)。そしてこのコミュニケーション・スキルなしに他者の身体に接近する方法が売買春であると位置づける。なるほど、完成された売買春のシステムの中ではコミュニケーションの必要もない。すでに作られたシステムにのっとって金銭を支払うだけで、セックスできる。しかし、上野の「売買春とはこの接近の過程を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない」(57)という表現には、直感的に危険を感じざるを得ない。おそらく、男の利用者が事実セックスワーカー女性になら料金を支払っている以上何をしてもかまわないと思いこんでいることを指摘する意図で「強姦」という言葉を選んだのだろうが、これでは売買春と強姦の距離を不用意に縮めすぎている。売買春は、本来的には支払われた料金以上のサービスは提供しないし、どんな金額が支払ったとしても誰も「強姦する権利」を買い取れるはずがない。また、セックスワーカーには本来的に特定の行為を拒否する権利があるし、実際無理な要求をしてくる消費者からいかに自分の身を守るかが大きな課題である。こうしたセックスワーカーの日々おこなっている消費者との交渉を、一気にないことにしてしまいかねない「売買春は金銭を媒介とした強姦」という言い方はあまりにも事を単純化しているように思う。また、強姦という行為を矮小化する結果にもなりはしないだろうか。このような危ない表現を選んだ理由は?と疑問に感じる。

性的弱男はどこへいく?

さて「性的弱者」らはどこにいくのか。今のところ、「ヤラせろ」という「弱者」の要求はあまり受け入れられていないようだ(当たり前!)。それでは、彼らは従来通り買春をするのだろうか?ひとつの可能性としては、彼らはもはや買春もしないのではないか、というものだ。なぜなら、お金がないから。アダルト業界では、若い人はセックスにお金を使わないというのがよく言われる。それに、今や女の身体なしにセックスできる。アマゾンで一番売れているアダルトグッズはオナホールで、2番目がコンドームだ。なるほど男のマスターベーションは「当然のこと」だし、コンドームは必需品かつ消耗品だから、当たり前だと思うかもしれない。しかし、この第2位のコンドームは、他者とのセックスに使われているのではない。数百円で買えるオナホールを再利用するために、コンドームを使ってオナニーするのだ。ちなみにアマゾンでは「ドール」もよく売れているそう。これはオナホールを入れて使うお人形さん(いわゆるダッチワイフ)。また、売上1位の下着のレビューを見れば、その下着を男がそのドールに着せるために買っていることがわかる。みなさんはこれをどう考えるだろうか。「ヤラせろ」「俺はセックスをする権利がある」と迫って来るよりはマシだろうか?

 

ヴァギナかクリトリスか

 リブの言語が受け継がれない!

「ウーマン・リブが登場したとき、男根支配を脱しようと、『ヴァギナ・オーガズムかクリトリス・オーガズムか?』という論争があったが、その決着はとっくについた。」(上野2010: 123)というが、本当にそうだろうか?もしかしたら、リブの中では決着がついたのかもしれない。しかし、未だに多くの女性が「中でイケない」と相談しに来るし(外でイケればいいじゃないか!)、anan(2012年8月15日発売No.1819合併号)のセックス特集では中でイクための情報が4ページにわたって掲載されている(64%の人が外でイッているというアンケートが出ているにもかかわらず!)。ヴァギナ・オーガズムをクリトリス・オーガズムよりも優位に置く価値観の中では、ヴァギナ・オーガズムを感じられないことが悩みの原因になる。そして悲しいかな、彼との挿入セックスがあまりよくないのは自分のせいではないか、挿入で気持ちよくなれるように練習したい、とバイブを買いに来るお客様もいる。そのたびに私は哀しくなる。気持ちよくないことはしなくていいし、たぶん男の方が下手だったり女のことを考えない勝手なセックスをしているせいなのに、女は我慢することに慣れすぎている!

男根不在のヴァギナ・オーガズム

ウーマン・リブのヴァギナVSクリトリス論争は「男根支配を脱しようと」(123)する試みだったと上のは書く。現代では、ヴァギナ・オーガズムをイコール男根支配と読みかえること自体がすでにナンセンスだと考えることもできる。ラブピースクラブで扱っているバイブを見ても、これを見て誰が「男根だ」と思うのだろう?と疑問だ。例えば、14ページの「ミスブリス」は20年も前から売られている超ロングセラーバイブだ。20年も前から、すでに男根から離れてヴァギナ・オーガズムを女たちが感じてたのだ!最近のバイブは本当に形や色もさまざまで見ていて楽しい。今はもうバイブやディルドを使う時に男根なのでは?と心配する必要もないのかもしれない。

 

権力のエロス化

 暴力は暴力!というメッセージの必要性

「権力がエロスのかたちをとって」「究極の男性支配が完成する」と上野は言う(2010: 246)。支配が性愛のかたちをとったり、性愛を支配として表現したりする、と。そして「それは愛ではなくたんなる暴力だ、と現代のDVの専門家なら言うだろう。だが、事態はもっとふくざつだ」(上野2010: 247)と上野は言うが、はたしてふくざつだろうか?それは、暴力だ、と言わなければならないだろうと私は思う。なぜなら、暴力や支配を愛や性だと呼ぶディスコースはあまりにも加害者に有利に働いてしまうから。暴力は暴力だ、と言えるようになったDVという理解枠組みをこんな形でうやむやにしていいのか。ここは断固としてそれは暴力だというメッセージを繰り返すべきではないか。

サドマゾヒズムに関する誤解

また、支配が性愛のかたちをとる、と上野が言うときサドマゾヒズムについて触れるが、これは危険な「事例」の使い方であると言わざるを得ない。なぜなら同意なしにフルタイムで課せられる男性支配とプレイとしてのサドマゾヒズムは、子どもの性的虐待と大人の同意の上でのセックスを同列と見なすのと同じくらい未熟なサドマゾヒズム理解だとしか言いようがない。自分の望む形で、望む回数、望む相手から受けるスパンキングと、暴力は違う。サドマゾヒズムはたしかに権力のゲームだ。だが、サドマゾヒズムの関係の中でパワーを持っているのは、マゾヒスト側なのだということを正しく理解しなければならない。マゾヒストには全てを拒否する権利があるし、たとえ同意していたとしてもその場で嫌になれば断る権利を持っている。日本の浅いサドマゾヒズム理解だと、サドがマゾをやりたい放題する、くらいに考えられているが、現代のサドマゾヒズムははるかに洗練されている。例えば、セーフワード。SMプレイでは事前に話し合って何をしてよいか、悪いかを決める。その中でシーンを演じていくわけだが、やってみなければわからないことも多い。そのため、たとえ同意した行為でもどちらかが危険だと感じれば、予め決めておいた合言葉=セーフワードを口に出し、一旦シーンの進行を止めることができるようになっている。サドマゾヒズムを矮小化させるのはいかがなものかと思う。このような文脈で性・愛・暴力・支配・サドマゾヒズムをいっしょくたに語ることは、暴力加害者の得とサドマゾヒストへの偏見助長にしかならない。(サドマゾヒズムに関する洗練された情報はパット・カリフィアの『パブリック・セックス―――挑戦するラディカルな性』、『サフィストリー―――レズビアン・セクシュアリティの手引き』などがある)

 

ミソジニーの先へ?

 まったく異質な他者として女のセックスを獲得する

「女を自分たちと同等の性的主体とはけっして認めない、この女性の客体化・他者化、もっとあからさまにいえば女性蔑視を、ミソジニーと言う」(上野2012: 29)とすれば、女が性的主体になっていくことがミソジニーへの強烈なカウンターアタックになるのではないか?この直感を実践したのが、リブの「抱かれる女から抱く女へ」だったのだと思う。そして男に所有できない女としてレズビアンになることを政治的に選択した女たちがいたことは、ミソジニーの構造を直感的に理解していたとしか考えられない。男に都合よく他者化された女を、ぶっちぎるほど異質の怪物として性的主体になっていくこと。それは客体化された女の表象にNOというだけでなく、より具体的に女が発信していくことを意味するのではないか。例えば、とある男性プロデューサーは「女のオナニー[iv]経験率は20%以下でしょう」(どう少なく見積もったって70%はオナニーしてるでしょう?!)「ちんこのこと考えてオナニーしてるんでしょう」(まさか!)などと言っていた。女が性的主体ではなりえない、男なしに女のセックスは成り立たない、という考えをそのまま言葉にしたコメントだろう。しかし、女がオナニーしていなければラブピースクラブのような商売は16年も続かなかっただろうし、今私たちの扱っているトーイを見て誰が「ちんこをモデルにしている」と思うのだろうか?ファロセントリズムを惜しげもなくさらしたこの男性の発言は、ラブピースクラブのカタログを見れば、明らかに間違いであるとわかるだろう。確かにちんこに近い形もある。ただそれば、数ある選択肢の中のひとつにしかすぎない。かたちを見て、「これはちんこでいうところのカリだ」などと考えたとしても、それは解釈であって事実ではない。事実は、段差があると気持ちいいようだという女の経験則に他ならない。女はちんこをはるかに超えて快楽を見出している。女がみな男と全く無関係なところでセックスの言語、思想、行動を身につけていったら、男はどんなに置き去りにされた気持ちになるだろうかと考えるのは楽しい。本書「女ぎらい」は、ミソジニスティックな社会において女が、そして女の性的主体がいかにないがしろにされてきたかを書いた。ならば、ここから先の仕事はラブピースクラブの出番なのではないかと思う。ないがしろにされてきた女のセックスをできるだけ魔女的に、異質に、取り戻すどころか創造することが、ミソジニーの先に行くには必要だ。(だから、ラブピは男の快楽については基本的に無視します。コンプレックス商法はいつだって金儲けには最適!なことを考えると、マーケティングとしての正解は「カレのために!カレを気持ちよくする!」なのだろうけど。私はそんなミソジニスティックな売り文句イヤです。)

 

 


[i] ブッチ、フェムを日本語で言いなおすのは難しい。タチ、ネコなどで表現されることもある。一般的には男役、女役くらいで理解されているようだが、この理解の枠組みそのものが極めてヘテロノーマティブであり、実際のレズビアンのダイナミックスを無視している。これらの言葉は単に容姿や行動、ましてやセックス中の役割だけを指し示すものではない。(もちろんある一面をもってブッチ、フェムと表現することもある)

[ii] しかしブッチな女が「男っぽい」のかというとそうでもない。もちろん男を目指しているわけでもない。強いて言えば「ブッチっぽさ」があるだけだ。男不在の(他者から見る)「男らしさ」についてはJudith
Halberstamの”Female Mascurity”で詳しく語られている。

[iii] ホワイトハンズとは・・・自分で射精ができない障がいをもった男性にケアスタッフを派遣して射精介助をする団体。そのほか講演活動などを行っている。もちろん、ケアされるのは男でケアするのは女。

[iv] 女が堂々とオナニーと言うことによるインパクトはあるけれど、すでに男によって使われすぎていて、「女のオナニー」が男のオナネタとして使われたりする現実を考えると、新しい言葉の方が使いやすい時があります。ラブピースクラブでは、最近「ソロ活動」とあえて言ったりしています。お客様も「オナニー」を声に出しにくい方は「ソロ活動」を使ってらっしゃったりします。新しいポジティブな女のセックスを語る語彙が増えることは、とても重要。

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