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母と娘のものがたり arichan
2009.09.17 Thu
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<p>「生物学的親であること」と「親になること・親をすること」は違うのだ、という前回のエッセイに非常に共感したわたしは、両者がイコールでない多様な関係を念頭に置きつつ、「親子関係」というバトンを受け継いで、このエッセイを書いていこうと思います。</p>
<p>さて、「親」と言われて、まずわたしが思い浮かべるのは母の顔です。両親でもなく父でもなく、何故だか母なのです。実家を離れてだいぶ経ち、その間連絡を取りあっている相手がもっぱら母だからなのかもしれません。とはいえ、下宿を始めた当時は毎日のようにやりとりしていたメールや電話も、今では週に1、2度するかしないか…なのですが。<!–more–></p>
<p>「そっち大雪みたいだね、大丈夫?」なんていう瑣末で不定期のメールにもかかわらず、数時間後には絵文字つきで返事がきます。ケータイの電源はいつも切っており、必要のある時しか電源を入れない母からです。そして返信メールを開くとき、わたしはちょっと想像します。ふだん電源を切っている母が「娘からメールがあるのではないか」と何時間か置きにケータイをチェックしているのではないか、その度に「ああ、今日は来てなかった」などと一喜一憂しているのではないか、と。そんな姿を想像すると、母のことがいじらしくて、とてつもなく切なくなるときがあります。</p>
<p>去年の12月号の<a href="http://amazon.co.jp/dp/4791701860">『ユリイカ』</a>で――この号は「母と娘の物語特集」で、母と娘を題材にした小説・漫画などが多数紹介されています――、信田さよ子さんが、母の娘に対する思慕の濃密さを「同性愛的なもの」に似ていると指摘されていましたが、これはまさにしっくりくる感じです。女という同類感もあるかもしれませんが、もっとそれ以上に「女として好き」、それも恋愛感情に近い「好き」みたいな感情をわたしは感じるのです。</p>
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<p>ただ、そうした母の思慕というのは、ときに非常に「有害」で、進路や就職、また女性らしさなど、「娘にはこうあってほしい」という母の思いのために潰されかけた経験を持つ女性も多いのではないでしょうか。『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』には、「あなたのためにわたしは我慢した」を押し付ける母とか、自らの叶え得なかった希望を娘に託して充実感を一緒に味わおうとする母など、娘に対して無意識的に抑圧・支配的な行為をする母親がさまざま出てきます。作中で、彼女らには「独裁者」とか「殉教者」など禍々しい名前がつけられていますが、娘にとってはけっこう身近にいる「母」かもしれません。</p>
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<p>そんな母というモンスターのようなものに、娘は否応なく対置していかなければならないわけで、そこには当然、母に対する葛藤のようなものが生まれます。それでまず思い出したのが「秋のソナタ」です。イングリット・バーグマン演じる一流ピアニストの母に「愛されなかった」(=バトンを受ける意味で言えば、「親をしない親」に育てられた)娘の、母に対する愛憎が描かれます。</p>
<p>この映画を初めて見た高校生のときは、母との対決シーンに号泣した覚えがあります。「わたしは都合のいいお人形で、ありのままの自分では愛されないから、ママの望むようなことを言って、ママの望むようなことをしてきたのに、それでもママは自分のことしか頭にないじゃない!」という娘の台詞が、当時の心境そのままだったからでしょう。</p>
<p>でも、今回改めてこの映画を見直してみて感じるのは、むしろ母のほうの気持ちで、彼女には彼女なりの弱さがあり、娘が母を理解できないと言ったように、母のほうも娘がわからなかったということです。「母親らしさを求めないで。弱い人間よ、と言いたかった」「娘の愛を知り、愛されたかった」という「母」の姿を見るにつれ、実はこちらのほうが相手の理解や愛を求めていたのかもしれないと思うに至りました。</p>
<p>15歳で「わたしはお母さんの操り人形じゃない」の乱を起こし、20歳くらいまで母と戦闘状態にあったわたしが今そんなふうに感じるのには、同じ女性としてこの社会に在り、同じような社会的不利を負いながら生きる存在として、母という女性を認める視点を獲得させてくれたフェミニズムとの出逢いによるところも大きいように思います。今でもたまに、「こうしたら?」と母から言われ嫌な思いをすることもありますが、母のアドバイスは彼女の過去の経験に裏打ちされたものであって、その背後にある「女性であるがゆえの問題性」を見るにつけ、母に対して憎悪というよりもむしろ連帯感のようなものを、現在では感じています。</p>
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<p>そこで最後に、母と娘の愛を描いたとても幸せなミュージカル映画、「MAMMA MIA!」を紹介します。</p>
<p>結婚式で父親にエスコートして欲しい主人公の娘ソフィは、3人の父親候補を自身の結婚式に招待します。「父親なんだから会えばわかる!」はずだったのですが、「遺伝子だけの父」なんて会っただけで分かるわけがなく、出生の秘密は解決されません。「父親が誰だか分からないこの苦しみは、ママのせい。自分の子どもには同じ苦しみを味あわせたくない!」と娘が母に怒りをぶつける対決シーンがこの映画にも出てきて、この母娘関係は単なる「仲良し母娘(おやこ)」ではなく、やはり葛藤を含んだものなのだということが示唆されます。</p>
<p>そんな葛藤を抱えたまま結婚式当日を迎えるのですが、感動的なのは、ソフィの花嫁支度をするシーンで「Slipping Through My Fingers」という曲がかかるとき。幸せそうな表情で娘のドレスアップを手伝う母、メリル・ストリープに対し、娘のソフィのほうは、最初ちょっと不満げで悲しそうな表情をしています。鏡を見つめる娘の背後からメリル・ストリープは歌いかけていくのですが、この曲がすごくいいです。「いつもあなたをつかみたくて、でもつかんだときには“わたしの指をすり抜けてしまう”。通学カバンを持って出て行くあなたの姿を思い出すと、あなたと過ごせた瞬間が宝物だったように感じる」という曲が、2人のシーンと共に回想され、それはさながら母の心象風景です。実に幸せそうな表情で歌う母の姿を鏡越しに見る娘ソフィは、シングルマザーでホテルを経営しながら実際に自分を育ててくれた母の苦労をやっぱり分かっていて、歌によって「わたしの「親」は母だけだ」と気づくのです。ソフィの悩みは一気にどこかへ、そして母に「エスコートして」と頼むのです。「だって、わたしを育ててくれたのはお母さんじゃない」と。歌の終盤では、母の思いを娘が受け入れ、また娘の愛が得られたことによって互いに癒されていく2人の表情の変化がなんともいえず、見ているこっちまで胸が熱くなります。</p>
<p>娘にとって母は難解な存在であるのですが、実は母にとってもそれは同じで、娘は「つかもうとするけれど、つかめない」存在なのだということ、それでも大切な相手なのだということを、この曲を聴いているとしみじみ感じ、「お母さんに電話しよっかな」という気持ちになります。</p>
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<p>この映画では、Slipping Through My Fingersの他にも、ABBAのヒット曲が場面場面での登場人物たちの心情を見事に表現してくれています。ABBAの曲はおなじみのものが多いかと思いますが、ソフィ役の女優、アマンダ・セルフライドの歌が非常にうまく、またメリル・ストリープの歌にも何ともいえない迫力と存在感があって魅力的なので、映画サントラもオススメです。</p>
<p>最後に余談ですが、「MAMMA MIA!」DVDの特典映像で、父親候補の一人を演じた俳優さんが、「この映画に出演してみてわかったことは、女性にとって男性はモノ同然ということだ。僕たち3人は笑われ役なのさ」と語っていたのはおもしろかったです。脚本や監督など、ほとんどが女性の手によって制作された映画というだけのことはありますね。</p>
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<p><a href="http://wan.or.jp/book/?p=76" target="_blank">次回「オトコなんて要らない?!」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから</a></p>
カテゴリー:リレー・エッセイ









