衝撃であった。なかなか席を立つことが出来なかったくらいの。
生前にわずか10篇の詩を公表したのみで、無名のまま55才の生涯を終え、 死後妹により整理タンスのなかから1800編もの膨大な詩が発見されたが、 実像はよくわからないまま、しかし、詩は後世の人々に多大な影響を与えた 詩人、エミリ・ディキンスン(1830~1886)の伝記をつづった映画である。

エミリ・ディキンスンは、生れ育ったアメリカ、マサチューセッツ州の小さな町ア マースト の自宅を出ることはほとんどなく、自宅(周辺)と自室2階からの眺望のみで、「世 界」を知り、把握し、 そしてその「世界」と戦った。
「世界」の何と?
ウソ、偽り、偽善、建前、たぶん俗 塵にまみれた 私たちの多くと。
付け加えるなら、「個人の多様性」を認めない一元的キリスト教福 音主義とさえ。
ちなみに評者に言わせてもらえるなら、これは正統派というより原理主義でさえあ る。

、、、、結論を急がないでおこう。
さて、冒頭から信仰問題である。当時イギリスの国教会からの弾圧を受け、アメリカ 東部(アマーストも一部)に逃れた清教徒主義(ピューリタン)信仰がまだまだ強い 力を持っていた時代。
エミリは、罪の自覚とその許しを強要する、マウント・ホリヨーク女子専門学校で、 校長に さからう唯一の存在。
自分は罪の自覚に至らない(感じない)し、だから許しを乞う こともわからないと。
彼女は正直なのだ。神をあからさまに否定しないものの、エミリのなかには家族や隣 人たちが 唱える神になじめないものがあったようだ。反抗的な自分は神の加護から外れている と。
父や他者からも強い叱責をうける。

詩がいう。

私の出合うただ一人は 神
私の越えてきた唯一の道は「存在」
もしほかに知らせがあり
よい舞台でもあれば
お知らせしましょう

撮影は、美しいニューイングランドの自然。
一部エミリの暮らした家の家具を再現し たという。
小さな傘をアクセサリーとして持ち歩く、上流社会の優雅な女たち。
彼女たちの率直 にして濃厚な知的会話。
結婚するかしないか、誰と誰が結婚するかなど男性が対象の話題もないわけではな い。
エミリがオープンに自作を発表しなかったのは、「女性には文学を作る資格がない」 と いった男尊女卑の残る文化風土のせいだし、はっきり「出さないほうがよい」とまで 言われたせいでもある。
当然、エミリや女性の仲間からは、男尊女卑への批判めいた言辞も出てくる。
とはいえ何よりも評者を打ちのめしたのは、エミリの孤独。
評者の核心を突いた彼女の深い空洞のような孤独である。
こんな表現すらなんと薄っ ぺらなことか。
誰がこのような居ずまいで、存在のよるべなさを表しえただろう。
演技のことではな く。
近隣者や友人たちとの交際はやがて途絶え、自らを閉ざしてしまうエミリ。
父の死後 は、 白いドレスで通し、兄や訪れる人には階段の上からしか言葉を交わさない。
それもい じわるにして 辛辣な返答である。
唯一の理解者である妹、ヴィニーさえ、エミリをたしなめるぐら いであって、 それに対しては、自省し、自分のようでない人を羨むエミリ。
それでも彼女は自分を 貫くしかない。

彼女には詩があったなどと言うなかれ。
詩は生きることを傍証したかもしれないが、 孤独を 埋めたとは思えない。
相対したとして、評者のこころはただただし~んとするのみであっ た。

詩がいう。

空間に孤独があり
海に孤独があり
死に孤独がある
だが この中にさえまだ集まりがあろう
 あのさらに深い場所
あの極地で一人暮らすなら―
魂が魂自身だけを許している
その限られた限りなさに比べるなら―

エミリを演じるシンシア・ニクソンの素晴らしさに異を唱える人はいないだろう。
若 いころのまだ、 社交性の残る表情豊かなエミリ、それからだんだんこころを閉ざすようになった後の 苦悩に満ちた 拒絶的なエミリ。
ベテラン女優のシンシアは、まるで彼女自身がエミリであるかのように演じ分け る。
これまでエミー賞やグラミー賞を獲得したのもムベなるかな。

最後に〈読者へ〉と題された詩を紹介しておこう。

  〈読者へ〉
 これは まだ手紙をもらったことのない
 世間の人々にあてた私の手紙です
 自然がやさしく厳かに話してくれた
 そのままの知らせです

 彼女の通信を
 私の見ることのない手へと委ねます
 どうか親しい皆さん 彼女への愛のためにも
 私をやさしく裁いてください

        (以上引用詩は『エミリ・ディキンスン詩集―自然と愛と孤独と』 中島完訳 1964から)   

評者は、エミリ・ディキンスンの前に、彼女の詩の前に茫洋とたたずみ、 落涙を禁じ得ない。
ひとりよがりなセンティメンタリズム?はい、どうかご容許を。

タイトル:静かなる情熱―エミリ・ディキンスン
監督・脚本:テレンス・デイヴィス
主演女優:エミリ・ディキンスン(シンシア・ニクソン)
ラヴィニア(ヴィニー)・ディキンスン(妹 ジェニファー・イーリー)
主演男優:オースティン・ディキンスン(兄 ダンカン・ダフ)
エドワード・ディキンスン(父 キース・キャラダイン)

配給表記   配給:アルバトロス・フィルム/ミモザフィルムズ
コピーライト:© A Quiet Passion Ltd/Hurricane Films 2016. All Rig hts Reserved.
2017年7月29日から東京神保町「岩波ホール」で。全国順次ロードショウ