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料理を通じたセクシュアルな関係とは? 内藤葉子
2009.12.24 Thu
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<p><em>料理を作るという行為は自分を差し出す行為だろうか。<br />料理を食べさせることは相手のなかに入り込み浸食する行為だろうか。<br />料理を食べてもらえることは自分を受け取ってもらえるということだろうか。<br />あなたのために作るというのは特別で幸せなことで、<br />そして支配を及ぼすという意味で怖いこと--。</em><br />「食べるという行為を通じて、世の中にはいろんな人がいていろんな生き方があるのだ」という田丸さんのエッセイを受けて――。<!–more–></p>
<p>特定の誰かと一緒に食事をすることには、どこか性的な匂いがつきまとう。食は日常生活や交際と切り離せない行為でもあるので、表面的にはセクシュアルなものは出てこないし、でてきてはいけないものだろう(コフマンなら、もともと食は宗教的行為であり、不浄と清浄を区別する記号だったと言うところだけど)。それでも日常や交際のコーティングを剥いだところに、セクシュアルな記号として食がクローズアップされてくることがある。</p>
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<p>松浦理恵子の『ナチュラル・ウーマン』では、ボーイフレンドとの食事が苦手で、ものを不味そうに食べる姿を見られては関係が長続きしないという女性・由梨子が出てくる。「食べること自体恥ずかしいものだ」という彼女と、そんな彼女に惹かれている主人公・容子は、旅先の旅館で性行為の試みに失敗したあと、夜中に蛸の足に喰らいつく。旅館の料理は不味そうに食べた由梨子も、とても美味しそうに蛸を平らげていく。料理ともいえないような素朴で野蛮な食べ物を一緒に食すことが、彼女たちにとっては、失敗した性行為の代償のようなものにも見えてきて、どこかとぼけてほほえましくも思える場面だった。</p>
<p>だが、一緒に食事をすること以上に、料理したものを食べる/食べさせるという関係には、いっそう強いセクシュアルな匂いがつきまとう。特定の誰かに食べさせることを意識して料理をし、自分の手を通して作られたものが相手の体のなかに取り込まれることは、性行為に近いような他者との「過剰な接近」だと言えなくもない。</p>
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<p>『沈夫人の料理人』は中国の明時代を舞台に、あるお屋敷の奥様と料理人との関係を描いた作品である。奥様は美味しいものに目がなく、天性の腕をもつ料理人・李三を犬のように可愛がっている。いじめればいじめるほど美味しい料理を作ってくるのが楽しくて仕方がなく、李三を痛めつけては、青ざめたり泣いたり感動したりする彼の表情の変化を肴に料理を食べる。サディスティックで、傍からみると大層わがままで図太い女なんだけど、李三にとっては彼女は美しく恐ろしい女主人として威厳をもって立ち現われている。奥様が自分の料理を日々食べてくれるところに満足感を得ているのがよく分かるし、自分の指を奥様が食べるところを想像して恍惚となってしまうあたり、非常にマゾヒスティックである。二人の間に性的な関係があるわけではないのだが、それにもかかわらずどこかエロティックな雰囲気が漂っており、料理を通じた濃厚な人間関係を堪能できる作品である(残念ながら(?)2巻以降からはお笑い化しはじめるのだが)。</p>
<p><a href="http://amazon.co.jp/dp/B00005FBWR">『赤い薔薇ソースの伝説』</a> というメキシコ映画でも、主人公ティタの作り出す料理は、それを食べる人々の感情を否応なしに揺さぶるものだった。もうだいぶ前に見た映画なのでうろ覚えなのだが、因習的な母親のせいでティタは恋人ペドロと結婚できず、しかも彼はティタの姉と結婚してしまう。ティタは姉夫婦と家族のために日々料理を作るのだが、ある日彼女はぺドロから贈られた薔薇でソースを作る。それを食べたペドロとティタは直接交わることなく性的に結ばれてしまう。料理を通じて相手を支配し影響を及ぼすというのは、恐ろしくも官能的だ。南米映画に特徴的な幻想的な場面も多く、出てくる料理も奇抜で美しい。料理が魔術のように人々の感情を引き出し、情熱的な行動へと駆り立てるところが、なんとも印象的な映画だった。</p>
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<p>そこまで濃厚なものではないけれど、『ジョゼと虎と魚たち』も料理が効いている映画だった。足の動かない少女ジョゼは、祖母の押す乳母車に乗って散歩に出ている途中、大学生の恒夫と知り合う。恒夫は、高飛車な物言いをする変わった女の子ジョゼに面食らいながらも、彼女の作る料理に惹かれてか、足しげく長屋に通うようになる。彼女は足が不自由であっても器用にイスに座って、小さな台所で筑前煮や卵焼きや糠漬を作る。狭い世界で生きてきて、おそらく身内である祖母以外に料理を食べさせたことはなかっただろうけれど、恒夫に料理を食べさせることを通じて、また恒夫もジョゼの作る料理を食べることを通じてお互い心を通わせていく。最後の場面で、恒夫と別れたジョゼが自分のために丁寧に鰆を焼いているところもよかった。誰かに食べさせるためにだけではなく、自分自身のために料理を作ることが彼女自身の成長を表わしているようだったから。</p>
<p>料理することは、自己と他者との濃密な関係を構築する行為でもある。それは相手との間接的な一体化の感覚を呼び覚まし、日常でありながら日常の枠を越え出る要素を含んでいる。他者との過剰な接近でありながら、性行為に潜む暴力性とは一線を画すところがあるのではないだろうか(同じようなことは、母子の関係についても言えるかもしれない。とくに乳児や幼児に料理したものを食べさせることは、子どもの成長に対する責任を一身に背負うと思いこんでしまうからか、他者との極端な一体化の感覚を引き出してしまう。とはいえ、これは本文とは少しズレてしまうので、またの機会に考えることができればと思う)。</p>
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<p><a href="http://wan.or.jp/book/?p=125">次回「絵本の中の美味しい場面」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから</a></p>
カテゴリー:リレー・エッセイ









