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写真と眠りにちらつく「死」 久津輪
2010.07.09 Fri
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<p>存在を感じさせると同時に不在を突きつけるという不気味な力を写真に見出したAnnaさんのエッセイを受け、私が真っ先に思い浮かべたのは時間と記憶をめぐるSF短編映画「ラ・ジュテ」(監督 クリス・マルケル)である。</p>
<p>これはとにかく不気味な映画だ。<br />そしてその不気味さの背景には冒頭に触れた写真の力が見え隠れする。</p>
<p>1962年にフランスで製作されたこの映画はスチル写真のモンタージュで構成されている。第三次世界大戦後の廃墟となった世界(パリ)を舞台に、「過去」と「未来」に救済を求める科学者が人体実験でタイムトラベルを試みる。これは唯一実験に耐え得た男の物語である。<br class="clearall" /><!–more–></p>
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<p>写真の不気味な力についてもう少し確認しておこう。『明るい部屋―写真についての覚書』(ロラン・バルト 花輪光訳 1985)によれば、写真が示すものは、現実のものでありかつ過去のものであるという切り離せない二重の措定を背負っている。現在ここでそれを見る者にとって「手に負えないもの」を表象している。「写真の時間は不動化」され、「現在とつながりをもたない絶対的な過去」を示す。その完全イメージ性、あるいは自己完結性は暴力的でさえある。さらに、写真は(映っている対象について)それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取らせるものであり、この圧縮された「時間に目まいを感じる」、ということだ。写真という存在にはなかなか壮大で不気味な力学が作用しているようだ。</p>
<p>その写真が流れていく。</p>
<p>矢島翠が「恐怖のフォト・ロマン」という小論で「ストップによって時間の流れの中で孤立させられたおのおのの瞬間。一つの瞬間は深淵をへだてて他から切り離されている。観客は瞬間の飛び石をわたっていく作業をつうじて、時間に穴をあけようとする主人公の力わざにいつしか協力している」といっているように、時間が不動化し圧縮されている写真の特性と、絶えず映像が流れてゆく映画の特性を掛け合わせた「ラ・ジュテ」は、そのスタイル自体がタイムトラベルの様を呈している。</p>
<p>そこに、生々しい効果音が鮮明に響く。<br />それは確かにささやき声であったり、鼓動という微細な音なのだが、その微細さとは裏腹にはっきりと耳にまとわりつく。</p>
<p>絶対的で不動の過去を突きつける<かつて=それは=あった>写真から、匂い立つようにひびく効果音。それは肉体の<今>を喚起させる。たった29分の映像から受け取る刺激は、あまりに多く、途方も無く不気味である。</p>
<p>―「ラ・ジュテ(La Jetee):飛行場の送迎台」<br />ラ・ジュテ(la j’etais):そこに私がいた(there I was) とかけているこの映画はまさに[時間の圧縮を内包する写真][不気味な力を持つ写真]の為にある作品に思えてならない。</p>
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<p>ところで、Annaさんのエッセイから連想したものが他にもある。「眠り」である。タイトルの「生と死の境界に」という言葉から、「フランスでは眠りのことを”小さい死”っていうんですよ。」というインタビュー記事の一節を思いだしたのだ。発言の主は、今や芥川賞作家となった未映子である。4~5年前に『ダ・ヴィンチ』で掲載されていた記事だったように思う。未映子は続けてこう言った。「眠りって無意識だから、私たちは眠りで死の練習をしているのかもしれない。でも文化系女子の過剰な自意識には眠りだけじゃ足りない。それで読書をやめられないんじゃないかなぁ。・・・本棚に並んでいる本の数はそうして救済された自意識の数であり、経験した無意識の数であり、契りを交わした墓標なんでしょうね」と。大学生だった私はこのとき初めて「文化系女子」という言葉に出会い(後に、私的頻出キーワードとなっていく)、「文化系女子はときどき死にたくなる。」というリード文にドキリとしたのだった。当時、未映子は音楽活動をしていた。セカンドアルバム「頭の中と世界の結婚」は今でも時々聴いている。ぺたりと頬を畳に押しつけ長く伸びた窓枠の影をうすらぼんやり眺めながら。そして目を閉じるのだ。</p>
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<p>最後に眠りといえば是非触れておきたい作品がある。吉本ばななの『白河夜船』。「心をおおった暗い闇と閉ざされ停止した時間からの恢復を希求した『夜』の三部作」と解説文にはあるのだが、これは「眠り」の物語だと思う。仕事もなにもしなくなって半年近くの主人公は、ひとりでいる時果てしなく深く眠りどんな音も耳に響かない。ただ恋人の電話だけをのぞいて。友だちのしおりは死んだ。彼女は客と「添い寝」をする仕事をしていた。主人公の恋人には妻がいるのだが、その妻は眠ったまま病院でひっそり生きている。眠りと生と死はここでもチームを組んでいる。<br /> ところで、私はときに眠りに吸い込まれたい衝動を感じる。その度に主人公を思い出し、彼女のように恢復できることを期待してしばし現実から遠のく。「眠り」を「停止した時間」と表した解説文から再び「写真」へと思考は回帰し、「不気味さ」でまとめるつもりだったのに随分と遠くまで来てしまったこのエッセイになんとタイトルをつけようか途方にくれつつ、生ぬるい空気を纏った瞼が次第に重たくなっていくのを感じるのであった。</p>
<p>*「ラ・ジュテ」に関する文章は、在学中に表現文化演習という講義で発表したものをもとにして書きました。</p>
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<p><a href="http://wan.or.jp/book/?p=301">次回「夢――ユートピアへの回路」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから</a></p>
カテゴリー:リレー・エッセイ









