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「居場所」から「広場」へ    鷹番みさご

2011.03.25 Fri

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.人外のものにかたちを変えて、人間が描かれているのではないか、という野田さんのエッセーを受けて、思い出してみれば、『かさこじぞう』、『幸福な王子』、日本にとどまらず世界中の童話で人外のもののかたちをかりて、人間のありようが描かれている。

人外のもののかたちを借りて、人間や社会を描こうとした作家として私がすぐに思い浮かべるのは宮沢賢治だ。

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『どんぐりと山猫』『月夜のでんしんばしら』など、動物、自然、あらゆるものを登場させながら、多くの物語をえがいている。人間が登場する話の中に動物や自然が登場したり、登場した人間を比喩するのに動物の名前が使われていたりするなかで、賢治の描いている世界が、人間の世界なのか、人外のものの世界なのか、はたまた人間と人外のものが共に生活している世界なのか、よくわからなくなってくる。人外のものと人間とは渾然一体であり、人外のものの姿を借りて人間が描かれ、物語の世界が構成されているのだ。

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『ポラーノの広場』で描かれている世界もなんとも不思議だ。昼には何もない野原のまんなかに夜になると不思議に楽しいポラーノの広場ができるという昔からのいいつたえを利用して、ムラードの森に工場をもつ山猫博士が次の選挙の票集めのためにポラーノの広場をひらく。その山猫博士が事業に失敗してまちを去ったあと、人びとは再び集まり、山猫博士がひらいたようなポラーノの広場ではなく、「そこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いようなそういうポラーノの広場をみんなでこさえよう」と言い、ムラードの森の工場をつかって産業組合をたちあげていく。

それぞれの力をもちよって、生活をつくっていくこと、それを励ます広場をつくること、これは現実の世界でも様々な場所で、ひそやかに営まれていることであろう。そして、人間がもつあたたかさややさしさや美しさは、一人でいるとき以上に、人が寄り集まって、共になにかをしようとしている時にあらわれるように思える。

なかでも、自分の仲間だけを対象とするのではなく、あらゆる人が共に場所と時間を共有することのできる広場をつくるという思想は、人も自然も万物が共生してきた自然の摂理に、人間のあたたかさややさしさや美しさを加えて実践するものとして、私にはとりわけ魅力的なもののように感じる。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.うてつあきこさんの『つながりゆるりと』は、「それぞれの問題をみんなで共有しつながって生きていると感じられるような、誰でもが寄り集まれる居場所」としてつくられた「サロン・ド・カフェ こもれび」を舞台とした本である。

うてつさんは、年越し派遣村の実施で有名になったNPO法人もやいで活動をしており、ホームレスの人たちが生活保護を受給し、ホームレス状況から脱したあとに人間関係の貧困に陥っている姿をまのあたりにして、もやいで生活保護受給後の居場所をつくっていく必要性を痛感する。

そして、元ホームレスの人たちと一緒に居場所をつくっていくなかで、うてつさんは男性の支援者や当事者たちから女性役割を期待されることに悩みつつも、当事者と支援者という枠を超えて支えあう関係を編んでゆく。ぶつかりあいながらも、それぞれの力をもちより、自分自身も活動しやすいように心地良い関係をつくりだす方法が模索されていくプロセスが描かれていて、きれいごとではなく、人が共に集まることのできる場をつくる難しさとあたたかさがが目に浮かんでくる。

「こもれび」は、2000年代に入ってからつくられた比較的新しい活動だが、誰でも気軽に行くことのできる居場所をつくる活動は、それ以前から意識的に取り組まれている。

たとえば、心が疲れたときや心の病気になったときに、気楽に行けて、おいしい食事を食べて、本音で語り合うことのできる居場所として1987年につくられた「クッキングハウス」が、よい例だ。

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松浦幸子さんの『不思議なレストラン』

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『続・不思議なレストラン』などの本で「クッキングハウス」の活動や、それを支える思いが紹介されている。

「クッキングハウス」では、①誰にとっても理解しやすく喜ばれる、②まわりからの応援を感じられ、自己肯定ができ、自信がつく、③いつでもオープンである、④建て前ではなく、本音で語れること、を活動のスタンスとして実施されてきた。孤立して一人で不安を抱え込まないでよいように、失敗が許されて、安心してチャレンジができるいつでも行ける居場所で、仲間とともに、人生を楽しもうと松浦さんは呼びかけている。

元ホームレスの人や、心の病気を経験した人が集まることのできる場、というと特別な場所だと思うかもしれない。しかし、一般社会のたいていの場所が、社会から外れずに生きている人を対象につくられていることを考えると、そこから疎外されてしまうことの多い彼らが集うことのできる場所は、あらゆる人が集まることのできる場所につながる可能性をもつ場なのではないだろうか。最初は、元ホームレスの人や心の病気を経験した人を対象とした居場所としてつくられたものが、より幅広い人たちへと広がっていくとき、その居場所は、特定の人たちに限定された居場所から誰もが集まることのできる広場になっていくのではないか。

そんな広場が社会に広がっていくことは、賢治の時代からずっと続いている願いとして存在している、と、私は思う。

次回「「日常(コウフク)」ってやつ」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから








カテゴリー:リレー・エッセイ