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「現在」に流れるさまざまな時間 田丸理砂

2010.10.01 Fri

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「時空を超える」、あるいは「性差への鋭い感覚」という観点からSFマンガを論じたyukiさんのエッセイを読んで、わたしがまっさきに思い浮かべたのはヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』だ。主人公のオーランドーは、エリザベス一世の時代(16世紀末)から、この作品が書かれた1928年まで360年ちかく生きつづけ、しかも途中で男性から女性へと変身してしまう。この間に彼/彼女はロシア女性に恋をし、文学にかぶれ、大使としてトルコに赴任し(突如女性になり)、彼/彼女はイギリスにもどり、財産相続をめぐる訴訟に巻き込まれ、詩人たちのパトロンになり、海の男と恋に落ち、20世紀に入り16世紀末の少年時代から書きためていた詩集を出版し、男の子を産み、ロンドンの町で車を走らせる。

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といってわたしは小説を読むよりも先に、サリー・ポッターが監督した映画『オルランド』を観ていて、実はこちらの印象が鮮烈だった。とくにエリザベス一世の寵愛を受けるあどけない16歳の美少年から、この映画が撮られた20世紀末に「女性」作家となったオルランドを演じるイギリスの女優ティルダ・スウィントンが魅力的である。16歳の少年オルランドは提灯ブルマーにタイツ姿で華やかな雰囲気を漂わせる一方で、36歳のシングルマザーのオルランドは化粧っ気がなく、長い髪をひとつにまとめ、白いシャツにブーツインのパンツ姿で、足を組み堂々と編集者と対峙する。
映画ではその結末とオーランドー(*以下は紛らわしいので「オーランドー」で統一)のまなざしも印象的だ。小説では1928年に自動車を運転していたオーランドーは、20世紀末の映画ではオートバイを走らせ、サイドカーに乗っているのは娘(小説では息子が誕生する)である。そして映画は木陰に座るオーランドーの顔がアップになり、彼女がスクリーンの向こう側にいる観客をじっと見つめるシーンで終わる。虚構の伝記という体裁を取る小説『オーランドー』では伝記作者がしばしば登場してはコメントするなど、直接読者に呼びかけることで、読者はオーランドーの秘密を共有し、他方、映画ではときに観客に語りかけるオーランドーのまなざしこそがわたしたちを彼/彼女の世界に引き込むものになっている。

オーランドーのように400年という年月をひとりの人間が生きることは不可能だけれど、とはいえ限られた年月ではあっても、わたしたちが日常的に受け止めている時間はカレンダーや時計が刻む客観的に数値化された時間だけではない。ウルフの別の作品『ダロウェイ夫人』(1925)では、クラリッサ・ダロウェイがその夜にパーティを開く、1923年の6月のある水曜日が描かれている。そのほんの一日の間に、クラリッサや他の登場人物は人生におけるさまざまな時間を行き来するのである。

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「ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った」という有名な一文で始まるこの小説では、6月のすがすがしい朝にロンドンの町に花を買いに出かけたクラリッサは、このすがすがしさに地方の町で過ごした18歳のころを思い出す。かつての恋人、友人たちとの濃密な時間、その時に覚えた感情、一方で彼女は自分が生きる現在も楽しんでもいるし、また目の前の出来事に心を動かされることもある。『ダロウェイ夫人』にはクラリッサを取り巻く人々の感じている時間ばかりでなく、第一次世界大戦に義勇兵として志願した戦争神経症に苦しむ青年、およびその妻の意識も描かれている(ふたりは他の登場人物とほとんど係わりをもたない)。小説の舞台となっている1923年は、近代兵器を用い未曽有の数の戦死者を出した世界大戦からまだ5年しか経っていないのである。客観的には同じ「現在」であっても、けして主観的な時間の流れは一様ではないし、またわたしたちの体験する「現在」には過去の時間が紛れ込み、それがふと意識にのぼり、「現在」のわたしたちをときに支配することだってある。そういえばこの小説にはサマー・タイムの導入について言及があった。この時期に始まったのだそうだ。夏になるといっせいに公式時刻を1時間早めることで、明るい昼間を存分に楽しもうというわけだ。そう考えると客観的な時間も、かならずしも客観的とは言えないのではないか、という気もしてくる。

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ところで『ダロウェイ夫人』はもともと“The Hours”というタイトルの予定だったとか。アメリカの作家マイケル・カニンガムによって1998年に発表された『ダロウェイ夫人』から着想を得た『めぐりあう時間たち(The Hours)』では、1923年頃、ロンドン郊外で『ダロウェイ夫人』の執筆を始めたヴァージニア・ウルフ、1949年のロサンジェルスの主婦ローラ、そして20世紀終わりのニューヨークに住む編集者クラリッサ、この三人女性の6月のある一日が語られている。

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神経を病んだウルフは、医者の勧めもあり、強い刺激を避けるために、静かなロンドン郊外で夫ともに暮らしていたが、ロンドンの喧騒こそが自分にとって必要なものだと感じている。孤独を愛する本の虫のローラは第二次世界大戦の元兵士で英雄の男性と結婚し、二人の間には三歳の息子がいて、現在第二子を妊娠中である。彼女は夫の誕生日のお祝いを準備しなければという義務感に駆られるものの、今読書中の『ダロウェイ夫人』をベッドにもぐりこんだまま読みつづけたいとも思う。クラリッサという名前ゆえに元恋人のリチャードに「ダロウェイ夫人」と呼ばれるクラリッサは、そのリチャードの文学賞受賞のお祝いのパーティを開くことになっている。登場人物や語られる出来事のところどころに『ダロウェイ夫人』との照応が認められ、それを考えながら読み進めるのもおもしろい。そして『ダロウェイ夫人』、同性愛、自殺がこの三つの物語をつないでいる。

『ダロウェイ夫人』を書いたウルフは1941年、入水自殺を遂げる。すでに1939年のドイツ軍のポーランド侵攻により、第二次世界大戦は始まっていた(『ダロウェイ夫人』でも戦争は重要なテーマのひとつだった)。絵に描いたような幸せな家庭生活に幸福を見出せず、読書することで誰とも分かち合うことのできない世界を保ちつづけるローラは、結局自死ではなく、家族を捨てることを決意する。多くの人たちに愛されるクラリッサは、エイズで死期の近づくリチャードの介護をする一方で、パートナーのサリーと18年共に暮らし、人工授精による娘もいる。そして彼女はリチャードを力づけようとパーティを企画する。
『ダロウェイ夫人』のクラリッサのような俗っぽさと優しさをもち合わせたニューヨークのクラリッサ。もう彼女の時代には同性愛的な感情の動きをみずからに認めることによって心のざわめきを感じることはない。いろいろなタイプの同性愛者が描かれることで、少なくともこの本ではそれがごく当たり前の風景になっている(ただし登場するのは男性の同性愛者ばかりだが)。
本(『ダロウェイ夫人』)を執筆したヴァージニアはのちにみずから死を選び、読書をするローラは本の世界に飛び込み、クラリッサは本を編集する。『ダロウェイ夫人』、本を介してそれぞれに異なる時代や場所を生きる彼女たちの時間が重なっていく。

ところでアメリカは知らないが、ヨーロッパの6月のすがすがしい朝は、わたしにもとても懐かしいものだ。わたしが初めてひとりでヨーロッパを旅したのが約20年前の6月。今でもヨーロッパを旅行していると、あの時と同じ匂いや気配を感じるときがある。すると不意に歩行者天国をアイス片手に行くネクタイ姿のサラリーマン(当時のわたしが驚いたもののひとつだ)や、大きなリュックサックを背負って心細くもあったが、好奇心に満ちた自分の姿が、強烈な過去として「現在」によみがえってくる。

次回「夏の終わりに、二つの冒険」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから








カテゴリー:リレー・エッセイ