2012.11.20 Tue
「吉野は古くから「かくれ里」だった。天武天皇が壬申の乱から逃れて籠もったのも、西行も義経も、南朝伝説も、「世のうき時」に足が向かうのは吉野の山奥だった」と白洲正子は『かくれ里』に書いている。
吉野の里人は不遇な人々に味方する風土があったのだろう。里を訪ねると、宿の人も土産物屋さんも、なんだか雅びで、もの言いにも、どこか品がある。
そらなる心は春の霞にて
世にあらじともおもひ立つかな
23歳で出家を決意した西行。花の懐深く、奥の院に結んだ庵を訪ねたいと、晩春の吉野に足を運んだ。桜も過ぎ、人もなく、自然の息吹が感じられる新緑の季節が一番いい。
黒門から発心門を潜り、仁王門の先に蔵王堂がある。東大寺に次ぐ日本で二番目に大きい木造建築。修験者・役行者(役小角)が開いたという蔵王権現の三体の像が、目の前に憤怒の形相で座している。どれも桜の木で掘られたという。
神仏混淆の山岳信仰、山伏は山々を駆けまわり、呪術や信仰を古来の人々に広く伝えた。明治5年の修験禁止令以後もなお、日本宗教の根底には、その思想が流れているのではないか。
中千本から眺める、尾根伝いに移り変わる桜模様の見事さは、なんとも表しがたい。
義経の隠れ家とされる茅葺きの吉水院に出る。低い天井の小部屋に義経が座したという床、弁慶が控えた狭い空間がある。庇を上げれば、外はもう一面の緑。紅葉の頃は、また趣きの異なる鮮やかさだろう。
上千本の水分神社を過ぎて、山伏の定宿・竹林院群芳園へ。まわり廊下を下っていくと湯殿は崖の上。吉野には吉野造り(懸崖造り)の家が多いという。木々に囲まれた露天風呂に浸かる。夕暮れに裏庭の山頂に立つと、はるか向こうに蔵王堂の幽玄な姿が浮かんでいた。
谷を上り下りして後醍醐天皇陵まで歩く。無念の思いで亡くなった天皇の霊は里人たちが支えた「自天王」伝説として、里人たちに今も語り継がれているのは、谷崎の『吉野葛』にもあるとおり。
日に2本しかないバスで、うねうねと奥千本の金峯寺までゆく。乗客は誰もいない。大峯の修験の山々が連なる。金峯寺から横道をそれて、桜の枯れ枝を杖に小一時間進むと谷の清水に出る。見上げるとパッと視野が開けたところに粗末な西行庵はあった。
静寂の中で鶯の声がこだました。
白河法王の寵愛を受けたという待賢門院への恋慕を断ち切り、若き日の北面の武士・佐藤義清は何を思い、出家したのか。
「世をはかなむのでもなく、世間から逃れようとしたのでもない、ひたすら荒い魂を鎮めるために出家したのであって、西行には一図な信仰心はみとめられないのはそのためである」(『西行』)と白洲正子は見抜く。西行の前に吉野の桜を詠じた人々が、ほとんどいないというのも不思議な話だ。
京都花園・法金剛院にある待賢門院像は、いま眺めても、なまめかしい。その没後、院に仕えた中納言の局は女人禁制の高野山近く天野の里に住まいした。高野の奥に庵をおいた西行を追って、残された妻と娘もまた天野に居したことを知るにつけ、人のかかわりの不思議さを思う。
そして天野の近く、丹生都比売神社のあたりは丹生(水銀)の鉱脈があるらしい。空海が高野山を開くには丹生一族の寄進が大きかったとも。不老長寿の薬とも麻薬ともされる水銀。空海が遣唐使船で唐に渡り、わずか2年で恵果から密教の灌頂を継承したのも、もしかしたら丹生(水銀)の効力があったのでは? ちょっと想像をたくましくしてみたくもなる。
空海が訪ねた唐の長安には、シルクロードを渡ってペルシャやアラビア、インドからの商人が溢れ、仏教寺院も道教もマニ教もキリスト教会さえあったという。
神と仏、敵と味方、異国とわが国の共存を図る宇宙をつくることを願ったという空海。
西行もまた「そらなる心」(定まらぬ心)から「虚空界」(一切を包括する世界)へと生きたのではないか。
「グローバル」とは何も新しい言葉ではない。吉野を歩き、高野山を訪ねるたびに思う。いにしえの人は現代人より、よほどその意味を知っていたのではないか。海を渡り、山野を駆けめぐり、人の心の広さと深さを、まるごと全体像としてとらえるすべを、かの人たちは感得していたのではなかったかと。
連載「旅は道草」は毎月20日に掲載の予定です。以前の記事は、以下でお読みになれます。
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