5月3日に掲載された初エッセイを読んで下さった皆様、ありがとうございます。
最近は被虐待者・性暴力被害当事者としてスタッフ研修に行ったり、打ち合わせをしたり、議院さんの勉強会で話したりしています。自助グループにも参加しながら社会交流を続け、今を生きることが出来ています。今回のエッセイは前回よりも長くなっています。私は解離性同一性障害で100人以上の人格がいるのですがまず仕上げる前に印刷をし、様々な人格の人に確認してもらい、訂正箇所があれば訂正してもらっています。
これから書く内容には性的・暴力的な表現も含みます。無理ない範囲で読んで頂けたらと思います。
私は被虐待児、母はDV被害者
私の家では虐待が日常的に行われていました。
当時のことを思い出すと、本当の自分を取り戻すことはできないのではないかという不安があります。しかし、私は人間には自然治癒力があるように、自分の力を信じてみようと思えるところまできました。
記憶にある中で4歳の頃から、実父は仕事から帰宅すると私を夜中に起こしては車に乗せてアダルトショップやアダルトコーナーに連れて行き、複数人の大人たちから写真や動画を撮らせることを13歳まで強要してきました。次第に私は現場に連れて行く父親に対し「嫌だ」ということを伝えるようになりました。幼いながらも羞恥心があったのは覚えていますし、その羞恥心という感情がどんなものであったか鮮明に覚えています。羞恥心が限界を超えると張り詰めていた一本の糸が切れた音がし、私は言われるがままの行動しか取れなくなりました。エスカレートしていく行為に私は従うしかなかったのです。
大人たちは私利私欲の為にここに来ているのだ・・・そう思うようになったのは小学2年生の8歳でした。
遡ると幼稚園年中の頃には「身体の中にいるお友だち」と話していたと思います。
幼少期の私は背が低く、食が細く学校からは指導が入っていました。夜な夜な起こされては大人たちの元に連れて行かれるので常に寝不足状態でした。そのような子どもが健康的でいられるわけはなく、突然耳が聞えなくなる、チック症になる、視力が急激に落ちる、言葉を話せなくなる等の症状が現れました。学校から病院に連れていくように言われ、母親が連れて行ってくれましたが、医師から伝えられたのは全て「一過性のストレスによるもの」 でした。
母親は父親にそれを伝えたところ「おまえのしつけが悪いからそうなる」と怒り倒しました。手をあげるまではいきませんでしたが「ごめんなさい」「全部私が悪いんです」と号泣しながら耐える母親の姿を見て私は「これ以上、身体がおかしくなってはいけないんだ」と自身に起きる反応を「お願い、消えて」と呪文のように唱えていたこともあります。
給食中に倒れ、私は毎日のように保健室に運ばれましたが、安心して眠ることができる白い保健室のベッドが大好きで、とても幸せでした。
母は毎食10品目のおかずを父の為に作り、父の機嫌をとり、父に怯える毎日。父の機嫌をとるのに娘である私に手をあげ、時には心中しようと試みる。母も私もよく生きていたと思うような場面がいくつもありました。
私は売られた子
6歳を過ぎた頃から伯母の家に遊びに行くことがあり、一泊して実家に帰ることもありました。伯父もとても優しくしてくれて欲しいものを買ってくれたり、家が広かったので騒いだりしてとても楽しかった記憶があります。しかし、ある日から「もうそろそろ大きくなるんかな?」と言いながら服の下に手を入れてきては、それまで自分を囲んできた大人たちと変わらない行為をしてきました。私は伯父のその言葉を耳にした瞬間、凍り付いたのを覚えています。今もその感覚が残っています。一生忘れることはできないと思います。
子どもとして親を頼りたくなる時もあります。怖くて、痛くて耐えきれない私は、母親に事実を言おうと試みたこともあります。しかし、身体は動かない。口も動かそうにも動かない。けど、その場から何とかして逃れたい。
扉が少し開いており、その隙間から母親の姿が見えた瞬間、声が出そうになりました。「お母さん、助けて」と。しかし、「あやみのおかげで宝石やお金を貰えて嬉しい」と満面な笑みでお金を握りしめる母親の姿を見て、「あぁ、私は売られたんだ」と思いました。私は母親にSOSを出すことを諦めました。しかし、それ以前に私は自分のパジャマをハサミで切り続けた記憶があります。何度も何度も同じところを切りました。しかし、母親は「なんでまた切れてるの!おまたのところばっかり!」そう言いながら針で縫っていました。
家に児童相談所が踏み込む権限はない平成時代
性的虐待だけではなく、殴る、蹴る、「殺す」と脅され包丁を目の前に突きつけられたり、裸で外に放置されたり、押し入れに長時間閉じ込める等身体的虐待。「生まなければよかった」「悪魔の子」と言葉による心理的虐待。稼いでいる父親が優先的に衣食住を自由にし、働いていない子どもの食事は後回しで父親が食べ残したおかずを食べるなどのネグレクト。ごちそうだと感じたのはカップ麺でした。
身体的虐待は伯母とまだ一緒に過ごしていた頃 「顔だけは叩いたらだめ!女の子なんだから顔はだめ!」と殴る父親に伯母が言ってくれて、それからは見えない部分への暴力に変わりました。「こんな家にいたらおかしくなる」そう言って伯母は結婚して家を出て行きました。「一緒に連れていってほしい」ことも伯母に伝えましたが、その願いは叶うことはありませんでした。
小さな家で行われる虐待。怖かったり、痛かったり、哀しかったり、寂しかったり。勿論、そういう感情は持っていましたし、泣いたりもしました。泣き声で近所の人の通告で大人が訪問してくることもありました。しかし、いつも母と兄だけが玄関に行き、私は部屋の奥の方にいるように言われました。けど、どうしても玄関先が気になる。そっと覗いた時に外にいる大人と目が合いました。そこで知ったのは「保護する施設がある」ということと「何もできなくてごめんね」という大人の言葉・対応。
大人が帰って行った後、私は母親に土下座をしながら「施設に行かせて下さい。お願いします」と泣きながら頼みました。しかし、母親は「しゅん、あやみを殺せ!」と泣きながら兄に包丁を持たせ、兄は固まったまま包丁を持たされました。私は今日死ぬんだ。不思議と私は死を受け入れようとしました。「お母さんが幸せになるんだったらいいよ」私は母親に向かって泣きながら笑顔で言いました。母親が父親からDVを受けていることは毎日目の前で見てきましたし、母親に対して「かわいそうな人」として見ていたけど「幸せになってほしい」とも思っていました。自分のせいで母親が苦しい思いをするのであれば私は死んだって構わない。
私は死を受け入れながら倒された身体を動かすことなく、覆い被さってくる兄の目を見て死を覚悟しました。しかし兄は私の左腹部に包丁を落としただけで、大事には至りませんでしたが傷は未だに残っていますし、兄の死んだ魚のような目を忘れることはできません。
テレビをつけると今でも虐待によって命を落としてしまった子どもたちがいます。ニュースを見る度に、自分と同じではないか。少し間違っていたら私も虐待によって死んでいたと思います。
ポリヴェーガル理論
4歳からわいせつ行為があり7歳の時には性行為は始まっていたと思います。最初は痛みが全身に突き刺さり暴れることが出来ました。しかし、次の瞬間父親の張り手で身体がパチッと音がしてそれ以降動かない。そして「女は痛みに耐えること」 「お父さんのいうことをきいていればいい」 「みんなしていることだ」 「これは父親から娘に対する愛情だ」 「彼氏ができる前に父親がすべてしておかなくてはならない」と教えられ、私は他所の家庭にもこのようなことはあるのだ、こんなにつらいことを皆我慢しているのだと思い、誰かに相談することはありませんでした。私の中でそれらは「普通」となってしまい、外部にSOSを出すことができなくなりました。
身体が固まったりする説明として、ポリヴェーガル理論があります。私の人格の中にいる6歳の子はワンストップセンターの支援員さんと話す中で、「ポリヴェーガル理論・背側迷走神経が優位になるとカチンコチンになる!」と覚え、幼い人格の子たちと「逃げないとワニに食べられるんだ!」という「ワニごっこ」をしたりしているようです。記憶を回収する役割をもった人格、永遠さん8歳に教えてもらいました。
また「シマウマはライオンに食べられそうになったら固まって動かなくなってライオンはなんだ…と思ってシマウマを置いてライオンは何処かに行っちゃってシマウマは助かるけれど、お父さんワニは私たちが動かなくても何処かへ行くことはなく最後までパクパクしちゃうから危険なんだよ」と教えてくれます。
副交感神経といわれている神経回路の中に腹側迷走神経と背側迷走神経があります。背側迷走神経が優位になるとフリーズ、所謂凍り付いてしまう。腹側迷走神経が優位になると迎合してしまうなどといった危険な中を生き残る為の神経があります。
この理論をはじめて知った時、私は身体の中に貼り巡る神経が何故硬直してしまったのか解り「納得」しました。この状態が皆さんにもあるのかは私には分かりませんが、昔から神経というものが張り詰めたり、凍り付いたり、緩んだりする瞬間が分かりました。張り詰めた後に凍り付くということもわかり、張り詰めだしたら「危険だ」と分かってはいるのですが、そのまま凍り付くという反応は避けられないものでした。
今でも神経が張る瞬間が分かります。私の場合は凍り付くまでに何段階のプロセスがあるのです。
それは性被害に遭っている時だけではなく、食事をしようとする瞬間。とくに人に見られながら食事をとるという行為に何らかのトラウマがあり、私の場合、凍り付くまでのプロセスを踏むみたいです。張り詰めた糸は横に緩むことはなく縦に張り詰め、頭部の下に頭を支える首があるわけですが、張り詰めている状態では首を横に振ることはできず、私は縦にしか首を振れなくなります。
これがもし「今から性行為をしますが、いいですか?」と尋ねられた時に張り詰めていたとしたら首を縦に振ってしまうのではないか。そう思うと恐ろしいと感じます。実際、数回そういうことがあり、私からすると本当の同意ではない性的行為をしてしまったことがあります。
ポリヴェーガル理論については 「なぜ私は凍りついたのか」を読んで頂けたらと思います。
「あなたは悪くない」を自分のものにする
私はカウンセラーに過去の性暴力被害を打ち明けた時に一番最初に「あなたは悪くない」と言われました。
言われても「いやぁ、私も悪いのでは?自分にも落ち度があったのでは?幼少期からそういうことが普通にあったせいでそういう反応をとってしまって、その人は加害者ではないのではないか」と口に出さずに思っていました。
しかし、はじめて自助グループに参加した時、皆さんの過去の性暴力被害を聞いた瞬間「あなたは何ひとつ悪くない!悪いのはそういうことをしてきた相手だ」と心の中で強く思いました。
「自分は穢れた存在」から「自分が悪くない」に考え方を移行させること。簡単な作業ではありません。今でもふと「自分も父親のように穢れ、社会と接点をもってはいけない。何故ならこんなにも穢れているのだから」と思ってしまう時はあります。日々、自分とも闘い続ける。闘い続けた先には必ず希望がある。希望を信じて前に進み続ける。それは決して一人ではできません。
私たち100人を超える人格それぞれが「自分は悪くない」と思える日はくるのか。きてほしいという思いは強くあります。
18歳で東京へ避難し、18歳で虐待のある実家に自ら帰って14年後のリベンジとなります。
大人なんて社会なんて絶対に信用してはいけない。信用しても裏切られるという気持ちをずっと持ち続けてきましたが、「信頼できる人はいる。自分を大切に思ってくれる人と人間関係を続けよう」と少しずつ思えるようになりました。
これにはカウンセラー・支援員の忍耐力がかなり必要となるということをこれから先のエッセイで語ることが出来たらと思います。
今まだ支援に繋がれず苦しみ続けている仲間がいるかもしれません。これは今の自分にも言い続けている言葉です。
「諦めないで。ほんの少しでもいいからあなたの希望の灯火を灯し続けて。まだ駄目でも灯火に手を添えてくれる人は必ず何処かにはいるから。諦めないで。助けてって言って。諦めないで。私はあなたの仲間でもあり、味方です。」
また来月、必ずここでお会いしましょう。