まだ暑い日が続いていますね?今回のエッセイは15年前の行政の話しが入ってきます。
「嘘でしょ」と思われることもあるかと思いますが、私は本当のことを伝えていきたい。私にとっても、今回のケースを書くのは、もの凄くしんどかったです。
どうか皆さんも、ご自身のペースにあわせてご覧になられてください。
東京駅から新幹線に乗る私。私は希死念慮を抱えたまま地元とは違う県にうつりました。
民間シェルターに入所するのに、希死念慮があると困るという現実が待ち構えていましたが、今晩寝る所もなくて、最終的には民間シェルターでお世話になることになりました。
手持ちのお金はなくなっていく。確か手元には3000円だけ残っていたと思います。支援してくれる方と一緒に生活保護の申請をしに行ったのですが、虐待に理解がなく、「申請するなら地元の警察に被害届けを出すのが条件」だと役所に言われ、恐怖を感じました。親がとんで迎えにくるのではないかと。
2回目の申請も不受理で、私はまるで「生きることを諦めなさい」といわれたような感覚になり、暗い夜の中、海に入っていきました。体は不思議なことに、溺れると感じると咄嗟に溺れないように泳ぎだします。「もう少し生きていいのかも」と海からシェルターに戻り、朝まで眠ることもなく窓の外を眺めていました。これから先、私はどうなるのか。
3回目の生保申請時には、弁護士が役所の方を名指しで、「受理しなければ訴える」といった内容を書いてくれました。そしてやっと受理されました。すると行政からは「受給開始になると私たちが指定したシェルターに入ることになります」ということで、公的シェルターにお世話になることになりました。
公的シェルターに18歳が入るということ
10代で利用しているのは私ひとりで、他はDV被害から逃げてきたという方が大半でした。
知らない者同士、利用者が多い時は同室になるのですが、部屋に帰ってきた時に知らない方が畳の上に座っていて「こんにちは」と言うと、「あなた親不孝ね。お父さん、お母さんの気持ち考えたことあるの?」と強い口調で言われました。その人からすると非行少女に見えたのかもしれません。私は言われた言葉を聞いて部屋には戻りたくなくて、他の利用者の方と会話したりして自分の感情をオフにしました。
寝る前に睡眠薬を飲み、布団に入ったのですが、その晩は涙が止まりませんでした。大人や周囲の方は表面だけで判断したりする。私の声は誰にも届かない。
翌日の私の顔を見て、食事を作ってくれる職員の方に「真野さん、おいで」と言われ、「一緒に食事作ろうか」と誘われました。一緒に野菜を切っていくなかで「何か言われたんでしょ?あなたは親不孝者でもないし、あなたじゃなくって悪いのはあなたの家族。泣きたくなったら泣いていいからね」私はものすごく唇を噛みしめました。その職員がそう言ってくれた直ぐ後に、DV被害から逃げてきた女性のお子さんがキッチンに入ってきたからです。子どもの前で泣くのは、もしかすると悪影響になるのではないか。色々考えながらその日一日が終わり、戻りたくない部屋に戻り、寝る準備をしました。すると同室の方が「ごめんなさいね。私はあなたのことを知らずに、あんなきつい言葉を言ってしまった。本当にごめんなさい。一緒に生きて行こうね」と土下座までして謝ってくれたのです。その方は明日から寮に入るということで、それが最後の言葉でした。
行政からの二次加害「あんたなんか死ねばいいのに」
翌日、私は精神科に行くのに行政の保健師と一緒に大学病院に行きました。3回目の受診の時、「こんな暑い中、バスで行けというの?あなたは若いからいいかもだけど、こっちは疲れるのだから」と保健師の方から言われ、「あの…皆さんの税金でもらっている身なので複雑ですが、タクシーで行きますか?」と問うと「それならいい」とタクシーに乗り、支払いは私がしました。病院についてからも「何時間待たされるのか。喉乾いた。私はあなたのためを思って言っているの。私は喉が渇いたって言ってるでしょ?」と私は必死で自動販売機を探してお茶を買ってきました。「お茶で大丈夫でしたか?」と尋ねると「うん」と。そういうことが続きました。
シェルターは短期利用なので、ずっとそこに居れるわけもなく、次に行く場所を決める必要がありました。提案されたのはグループホームでした。担当のケースワーカーは女性だったのですが、グループホームへ向かう電車の中、車内は人も少なく、座るところもたくさん空いていました。「若いのだから絶対に座ったらだめ。座ったら殺す」と言われ、『私自身、何処にいるのか、何をしに電車に乗っているのか。目の前の女性とはどういう関係性なのか』ずっと頭の中をループし整理していくのが大変でした。
グループホームの面談ではたくさんの白い服を着た大人たちに囲まれ、その空間に慣れるまで10分間くらいかかったと思います。「うちは男女混合の施設だから、真野さんのような若い方がきたら間違いなくレイプに遭います」と笑いながら言う女性院長。それは嫌だと伝えようとした瞬間、ケースワーカーが私の太ももをつねって「大丈夫です。この子はそれを望んでいるんで」と。すると大人たちが全員笑って、まるで私がここで強姦されることを楽しみにしているような顔でした。面談が終わり帰ろうとすると、一人の看護師が「私はここには入ってほしくないんです。院長が言ってたことは起きると思うので」そう言って、隣にあるアパートを教えてくれました。「もうすぐここの一部屋があくので、鍵もあるし、私はこっちに入ってほしい」という看護師に対し、ケースワーカは笑顔で「いらないです。こんな贅沢なところこの子には似合わない」そう言ってさっさと出ていきました。看護師の方が私を引き留め「さっき抓られてたでしょ?私の角度からは見えていた。何もできなくて、ごめんね」と言われましたが、私にはどうしようもなく、「早くおりてきてよ!」というケースワーカーの元に行き、公的シェルターに戻りました。
このままでは私はあの場所に入れられる。何とかしたい…。シェルターの事務室に行き「支援員と話しをしたいので携帯を一時的にでいいので貸してください」と頼むと、男性の職員が「この紙に書いて。でも、書いて申請が通る頃にはここを出ているだろうから意味ないし、もういいね?」と。
震えが止まらない私は、部屋に戻りました。新しく同室になる方がご自身のバッグを広げており、携帯電話をもっていました。私は「お願いです。携帯貸して下さい。あなたが携帯を持ち込んでいるってことは絶対に言わないので、貸してほしいです」と涙流しながら頼みこんだのを覚えています。
携帯を借りて、頭の記憶の中にある支援員のメールアドレスを打ち込み、グループホームで言われたことを伝えました。「なんとかするから安心してね」と返事がきました。
きっと私の心が顔に出ていたのだと思います。食事を作ってくれるおばちゃんが「真野さん、今日から部屋移動だよ」と。「何かあったら、私ら職員の部屋は目の前だから安心でしょ?」と、この言葉はその時の私にとっては薬以上の安定剤でした。
目の前だから安心でしょ?と言ったのに、消灯時間になっても私の部屋の入口に座り「眠るまでここにいるから」と。それは夜間交代がある日も、そのおばちゃんが話をしてくれていたみたいで、別の方も就寝中、何度も部屋に来てくれて「大丈夫?」と優しい笑顔で巡回してくれていました。
あまりにも酷い行政の対応からか、不正出血も起こり、話す時も震えてしまっていました。18歳だというのに、夜中に失禁してしまうこともあり、その度に「大丈夫!洗えば綺麗になるからね。恥ずかしいとか思わなくて全然いいから」と、他利用者には見えないように洗ってくれました。子どもが「パパは?」と食事中に言うと、他の子どもも「パパは?」「お父さんどこ?」と口に出すようになり、父の暴力を思い出して食事をとることができなくなり、「子どもたちが食べ終わったら、キッチンに来て食べていいからね。聴きたくない言葉だもんね。後回しになってごめんね」と言われ、母子が居なくなってからキッチンで食事をとっていました。そんなとき一人の職員が、職員も「実は私もまだ食べてなくてね。一緒に食べよう」と声をかけてくれました。
私は誰かが困っている時に、さりげなく寄り添ってくれる人になりたいとそこで思いました。
最後の最後まで行政からの暴力、私は婦人寮へ入る
結局、私は「婦人寮」に入所することになりました。自分の家でもないシェルター。でも「おかえり」「行ってらっしゃい」と言ってくれる職員のおばちゃんたち。「これからもつらいことが待っていると思う。けど、絶対に挫けないで!諦めないで!あなたは悪くない。とってもいい子だよ」シェルターを出る前に言われた言葉でした。
ケースワーカーと一緒に婦人寮まで電車で向かう途中。また座らせてもらえないし、私の背後に回り、肘で背中を叩いてきたり、頭を叩かれたり、髪の毛を引っ張られたり、足を踏まれたり、車両から誰も居なくなったら、私の耳を掴んで大声で叫んだり、車内の銀色のポールに私の頭を何回もあてたり、私の痛みセンサーは稼働していませんでした。
「痛みを快楽と認知させること」ずっとこれまでも私がしてきたサバイバルスキルの一つだと思います。快楽というと誤解かもしれないのですが、「快楽なのだ」と思わないと生きていけないからです。
「あんたなんか生まれてこなかったよかったのにね」「今すぐ死んでほしいわ、ほんと腹立つ」「殴り殺したくなる」「性的虐待ってお父さんとしてるの?気持ちわるすぎ、生きる権利もないよ。本当はあんたが望んでしていたんじゃないの?お父さんはそんなあんたの希望に応えるために相手してるんじゃないの?」「淫乱女、ビッチ、ヤリマン」「お父さんとやるのってどれくらい気持ちいい?感じるものなの?」そのケースワーカーに言われた言葉です。何ひとつ語らない私に余計腹が立つのか「なんか言えよ」と言って体をグルっと回し、向き合う態勢にし、お腹を何度も拳で撲られました。
私は「行政の人も病んでいるんだ…心のケアされていないから、こんな風なことを言うのかも」と思いながら、髪の毛を抜かれても無反応でした。
婦人寮に到着し、部屋に案内され、ソファーに座り「はじめまして」からはじまり。私はまた新しいところで生きていくことに不安がありました。「この子、さっき100万円貯めるまでここを出ませんって契約かわしたので」と言うケースワーカー。そのような契約は交わしていませんでしたが、100万円貯めるまでここを出ることができないという言葉にショックでした。
帰る前にケースワーカーに「ありがとうございました」と伝え、私はまたソファーに座りました。
しばらくして、女性のスタッフの方が「抱きしめても大丈夫?」と聴いてきたので、首を縦に振りました。言葉はなかったけれど、私は声に出してはじめて泣きました。次から次へと移動をし、何処に行っても「あなたのようなケースははじめてだから分からない」と言われてきたのですが、婦人寮に入所というだけで、居場所とは感じることができませんでした。ここで生活していくしかない。嫌だとも言えない。居場所もお金もない。心のケアもない状態でした。落ち着ける所についた…ではなく、これからどうして生きていくのか。将来に対する不安がとても大きかったです。
婦人寮のなかにあるカースト制度と性暴力
婦人寮は、私以外50歳以上の方で、様々な困難を抱えた女性たちの集まりで、婦人寮に入所すると生保は切られてしまいます。いじめのようなカースト制度というものがありました。新人で若い私は常に生理があるものだと言われ、「お風呂入るにも順番があるけど、あなた若いし生理なんて毎日でしょ?最後に入ってな?汚れるし!ちゃんと掃除もしてな」と。
食事時間になると、食堂があってみんなそこで食事をしてました。しかし、外で働いて婦人寮に戻ってくる人のご飯を勝手にあけて食べる人や、牛丼の日であれば、遅刻する利用者のお肉を減らしたり。そういうことは日常的でした。洗濯機も3台あるなかで「あなたはこれしか使ったらだめよ」と壊れている洗濯機を使うようにと指示されました。水しか出てこない洗濯機。脱水もされない。「真野さん!ちゃんと脱水してからほしてよ!」と言われても「すみません」しか言えませんでした。
一日のうちに何個か内職をしたりするのですが、100万貯まるのにどれくらいしないといけないのかと思い「これひとついくらになるんですか?」と聞くと「0.3円」と聞かされ、私はいつここから出られるのか…。絶望に近いショックでした。だけど何もしないより、何かした方がいいと思い、内職は続けていました。
朝、決まった時間に起きて、各部屋を掃除したりするのですが、ベッドから立ち上がりたくても息が苦しく、部屋の入口まで何とか歩けたものの、頭が真っ白になり、視界も砂嵐状態で座り込んでしまいました。「叱られる」そう思って立とうとするけど、まったく動かない。
一人の利用者が職員に話してくれたところ「今日一日はベッドで休んでいいよって言っていた」と聞き、立てるようになってからベッドに戻りました。
暫く、ベッドの中で二度寝のように睡眠をとり、身体の限界を感じていました。利用している方は外に働きに行っているので、私一人が寮に居た状態だったと思います。しかし、部屋に入ってくる音が聞こえ「あれ?仕事終わるの早いな」と思っていました。足音は私の頭部でとまり、頭上にあるロッカーや箪笥を誰か見ている。「誰?」と体を起こしたくても起こせない。でも、その箪笥の中には下着が入っている。下着を手に取る手が見えて、そこではじめて男性が居ること。そして、私の下着をポケットに入れている行動に気づきました。
考える間もなく、その男性は寝ている私の掛布団を捲り、キスし始めました。「やめて」と言いたくても言えませんでした。最後まで性行為が行われ、「私って男の人の相手にするために生まれてきた?」自問自答する日が増えていきました。その性暴力が遭った3日後くらいに、「若い人は私たちが借りているマンションの方に住んで、そこから働きに行ったりしているから、真野さんもそうしようと思って」と婦人寮の職員に言われ、早いうちにマンションに移りました。
親権剥奪を望み弁護士と会う
親権剥奪手続きをしたい。私は家族を失ってもいい。あんな場所には帰りたくない。
私は心理士の支援者と弁護士をマンションに呼んで、今後のことについて話をしたいと思っていました。弁護士は男性の方で、実際にお会いするのははじめてでした。
6畳の部屋にテーブルとお布団があるお部屋。お茶を出してから、私も座り、会話をはじめました。
そこで言われたのは「娘の成長なんか確かめてもいいでしょ?」「こうやっておしりぺローンってされるくらい普通じゃないか、それの何が悪いのか?」「どのくらい成長したか娘の体を確認するくらいいいでしょ。減るもんじゃないし」と言われ、私は感情とは真逆の表情を出して笑顔で「そ、そうですね…」と返すことしかできませんでした。私の方に体を寄せてきて、実際に私の太ももやお尻を触る行為があり「ちょっと~、やめてよ~」とふざけた感じの止め方をする支援者。
「過去に未成年の子の親権剥奪のための裁判を無償でしたけど、あの子、途中で倒れてしまったんだよね。せっかく無償でしてあげたのに。こっちからしたら、あのケース断っておけばよかったね」と目の前で繰り広げられる会話。これって…私が親権剥奪するから?敢えて言っていることなの?と疑問が生じました。
男性弁護士からのセクハラ、それを止めようとしない支援者。私の中で「恐怖」がこみ上げられました。
私は二人が帰った後にスーパーによって、カッターナイフだけを購入し、部屋の中でティッシュがなくなるほど自分の腕を切りつけました。自傷行為は家族に止められおり、それまでは「お前は商品だからやるな」と言われてきました。
そして何を考えたのか、当時の私は携帯電話に入っている番号にかたっぱしから電話をした気がします。その中には高校の担任の先生の番号もあり、電話をしました。「あんた誰に電話かけてる?わかってかけてきてる?」私は泣きながら、過去のこと今現在のことを伝えました。でも、その先生は「授業参観にも来てくれる母親がそんなことするわけないでしょ。父親に関しては知らない」と。
結局、私は嘘をつきました。
「友だちの家が私の面倒を見てくれることになったので、ここを出ます」と、婦人寮の方に伝え、荷物も箱にまとめて実家に帰る準備をしました。
その前に母親からかかってくる電話に出て、「宗教はやめたのか?」と問うと「やめた」と言ってきて、実家に帰る前に私は「二度と叩いてきたりしないで」と約束をしてもらい、実家に戻りました。
実際は暴言暴力が行われる宗教からは脱会していませんでした。そして、実家に戻った私は父親と父の友人で肩書もある人の前で「すべて私の虚偽で、虐待を受けた過去はありません」という紙にサインをさせられ、同じことを白紙の紙に書かされました。
「お父さんに恥をかかせて!謝りなさい」「俺がどれだけ恥ずかしい思いをしたか!」と両親から言われましたが、父はその一言でその時は終わり、1週間程は何もされませんでしたが、虐待は収まることなく、悪化していきました。親に騙され…、解離も激しくなっていきました。
ずっと親が死ぬまで実家に居続ける。そう思っていました。まだまだ心のケアは出来ませんが、まずは
「知ること」からはじめました。様々な本を読んでも、まったく分かりません。「解離性同一性障害」のことを語らず児童期の虐待に対応している専門家。解離性障害までは語られていますが、自分が得たい情報が入っている本とはなかなか出会いません。
先日、購入した本です。トラウマインフォームドケアについても書かれていますが、複数の人格がいますが、人格の子たちも協力体制で、歯を食いしばったり、過去と向き合い対処していくことはとてもエネルギーを使います。
私も18歳の時は親権剥奪する気があったので、悔やんでも悔やみきれませんが、解離させて今まで生きてきました。過去のことを忘れることは出来ません。
しかし、自己肯定感の低い私には将来の夢ができました。
NPO法人レジリエンスさんの中島幸子さんのように、☆さん(当事者)や支援現場の方に伝えていける力をつけていきたいと思います。勿論、私や他人格も手を組み合って。
また来月、必ずここでお会いしましょう。