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4.13 万物は流転する? 鷹番みさご
2012.08.04 Sat
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日々変化し続け、永遠とは程遠い存在でありながらも、永遠に変わらない日常として描かれる家族・・・そんな問いかけを鈴木さんより受け取り、思い起こしたのは、角田光代さんの『空中庭園』です。郊外のダンチで「何ごともつつみかくさない」をモットーとして営まれる京橋家の「日常」は、「私のつくりあげた家庭に、かくすべき恥ずかしいことも、悪いことも、みっともないことも存在しない」と家族に繰り返す母をよそに、夫も子どものコウもマナたちも皆が家族に秘密をもっています(母自身も墓までもっていく秘密をもっているのですが)。息子のコウは、その様子を外部に対して一見自由に出入りできるように見せつつ、家の中には身内の進入を防ぐために「逆オートロック」のドアが存在している、と評しています。
しかし、変化を拒み、かくすべきことなどない家族の永遠に続く平和な「日常」は、「かくすべきもの」をないものとしてみないことにして担保されるような矛盾に満ちたもので、はたから見るとグロテスクなものであったりします。たとえ家族であろうと、別々の独立した人格をもち、世界をもっているからこそ、すべてを共有することはできないし、年月の経過は少しずつ彼らを変えていきます。でも、永遠を希求する気持ちが目の前にある事実を見えなくさせてしまうのでしょう。
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一方で、そうは言っても受け入れざるを得ない変化もあります。『今度は愛妻家』は、結婚して10年がたつ夫婦のお話。元売れっ子カメラマンでありながら今はろくな仕事もせず、オンナにもだらしない俊介に対して、かいがいしく俊介に世話を焼いていた健康オタクの妻さくらは「別れて」と切り出し、出て行ってしまいます。当たり前に続くと思っていた家族の日常を失った俊介は、おかまの文太さんや俊介の弟子の古田に心配され、見守られながら、自分の身に起きた変化を受け入れ、ふたたび歩き出す・・・。
家族とは、実際には必ずしも永遠な存在ではなく、ある日突然変わってしまったり、小さな積み重ねの結果として気がついたらいつのまにか大きく変わってしまっていたりするもの。その変化は、普段家族が「永遠」と思っているからこそ、その変化に直面したときには人は自らの根底からゆるがされてしまうのでしょう。
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榛野なな恵さんの『Papa told me』は病気で母を亡くした父子家庭の親子とその周囲の人たちが、父子家庭として、生活を作っている様子が描かれています。このまんがに登場する小学生の知世ちゃんは、あるものを見ないようにするのでもなく、ないものをあるものとするのでもなく、目の前にあるものやことを、冷静に見つつも、想像の世界に羽をはばたかせながらも、考えながら、かろやかに日々のできごとと向き合っています。変化に拘泥せず、目の前にあるものをよく見て考えるしなやかさと強さに、家族を支えるものの力強さを感じます。
そう考えると、強いものや永遠のものって、変化しないものではなく、変化を受容できるものなのではないか、という気がしてきます。そうはいっても、現実の家族がいやおうなく向き合わなければならない変化は、生老病死のどれをとってもなかなかしんどいもの。だからこそ、アニメや物語のなかに人は永遠の日常が続く家族を求めるのかもしれません。
次回「延々と不器用に」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから
カテゴリー:リレー・エッセイ