
Aさんから贈られたアルバムにある私の母・江﨑清子。Aさんに連なる豊かな交流に恵まれていた頃
① Prologue
人生はハプニングだ。どういう偶然が散らばっているかわからない。その偶然が重なって今ある私ができている。私の人生はまぁまぁレアだ。
私にはいろいろなプロフィールがある。非婚シングルマザーで婚外子の母、自身が操作された婚外子、自死遺族、分籍経験者で創氏経験者、性暴力サバイバー、女ライダーでもある。政治家相手のセクハラ裁判原告、ハローワーク雇い止め裁判では国相手のひとり原告、そのおかげでジュネーヴへのロビイングも参加させてもらえた。国連やILOや世界経済フォーラムの委員の前で英語でアピールさせてもらえたことは貴重な経験だ。現在は社会福祉法人の就労支援員(非正規雇用労働者)として、働きたい障がいのある人と雇用したい企業の間に入って人と仕事を結び付ける仕事をしている。こういう女性の生き方もあると感じてお読みいただければありがたいと思う。痛ましくもあり、しばしば滑稽で、でもまれに荘厳な「個を生きたい」という突き上げるような思いが散りばめられている。
私がどうしてあんまりメジャーではない生き方になってきたかをたどると、出会ってきた先生方や読んだ本の影響もあるけれども、やっぱり母の姿を見てきたからだと思う。昭和の時代を自分を押し殺して生きた母のことを触れないでは、私は私のことを語れない。

母のアルバムにある赤ちゃん時代の写真。こちらの絹の前掛けは、私の息子にも孫にも受け継がれている
母は男の子が3人続いて生まれた後の最初の女の子で、母の両親からはそれは可愛がられて娘時代を過ごした人で、母の遺品の中には祖母が縫った絹の前掛けがあって、それは今も遺してある。田舎だったがたくさんの本に囲まれた暮らしだったと聞いている。父親からどっぷり愛されて育った母には男性不信なんてきっとなかっただろう。結婚するまでは。

娘時代の母=母のアルバムより
母の遺した歌集のような散文詩のような、日記のような手記が今私の手元にある。それは母の亡くなった後にアメリカから届いたものだ。私が19歳の夏休みを過ごさせてもらったコロラド州デンバー在住のご夫妻から届いたものだった。
「・・・お母さんの形見の品になると思いますのでお返ししましょう」
と手紙が添えられていた。
厚さ2センチほどのハードカバーのノートには、母が祖父の蔵書にあった賀川豊彦さん(キリスト教社会運動家・社会改良家、1888-1960)の「壁の聲きく時」や「太陽を射るもの」を読んでいたこととか、その賀川さんのお通夜に、植物学者のAさんと一緒に行ってデスマスクを押したとか、東京駅八重洲口近くでエレベーターに初めて乗って、そう気分悪くなかったとか、「トロイのヘレン」という映画が素敵だったとか、「白鳥」のグレース・ケリーの気品に感動したとか(大事に取ってあった栞はオードリー・ヘップバーンだった)。「ヘッドライト」を見て、会話のおもしろさは洋画に限る、なんて書いていたり、タイプの学校を休んで「アンドレ・ワルテルの手記」を読んだ、とか、ゴスペルシンガーのマヘリア・ジャクソンのこととか、南原繁さん(元東大総長、1889-1974)とご一緒したとか、その時代のエピソードが切り取られていて読んでいておもしろい。東京時代の豊かな交流の中にあったことが伝わる。Aさんにつながることがたくさん出てくる。

ガリ版刷りの歌集「アララギ」
母は結婚して私を産んだので、私は戸籍上は母の結婚した男性が筆頭者の戸籍に「長女」として登録された。でも私はその父親との関係に葛藤があった。幼稚園の時に、私は母に、「なんであんなお父さんと結婚したの?」と聞いたことがあった。その時母は、「A先生が結婚しなさいって言ったからよ」と少し微笑んで遠い目をしてつぶやいたのを覚えている。同じ頃、私は母に、「ひとりで産んでくれたらよかったのに」と文句を言ったこともあった。私が小学校低学年くらいの時に、母は私の顔を見ながら、「これは学者の眉ね」と言ったことがあった。「あなたはお父さんからいい頭をもらっているから」とも。父親の眉毛は八の字の形をしていて、私のそれとは全然違う形だった。「お父さんってそんなに頭よかったの?」と少女の私は答えたのを覚えている。母は私が幼稚園か小学校1年生くらいまでは、「A先生」の話ばかりしていた。それからぱったりと母からはその名前を聞くことがなくなった。中学校の図書室で、Aさんの著書を私が見つけて、借りて帰ったら、すぐさま母はその出版社に連絡して、ほどなくしてその本が家に届いた。
母は、植物学者として生きたAさんの研究助手だったが、家事労働もこなした。妻を亡くした学者で、無教会派のクリスチャンだった。母は結核を患い、希望のない青春時代に聖書を読み、信仰でもつながっていた。
Aさんはキリスト者の内村鑑三(1861-1930)を生涯の師と仰いでいて、よく若い人に内村さんの著書「後世への最大遺物」を読むように勧めていたそうだ。内村さんの弟子仲間に南原さんもいらした。一時期住まいが近所だったようで、親しく交流があり、南原さんはAさんの弔辞を読まれている。母は短歌をやっていて、母の遺品の中にガリ版で刷った「アララギ」というタイトルの小冊子がある。結核療養所時代に母の歌仲間と作った歌集だった。南原さんはアララギ派の歌人としてもつながるところがあったのだろう。集合写真ではあるが、一緒に写った写真がアルバムに遺っている。
そのアルバムを開いたところに、「清子に」とAさんのファーストネームで筆の文字が記されている。1958年2月10日と読める。私は子どもの頃住んだ家で、そのアルバムの背表紙だけは見覚えがあったが、中を開いたのは母が逝った後だった。自死だった。母の青春が詰まっている。<続く>