大切な手紙をお見せした植島啓司先生と万博記念公園日本庭園の蓮池で。ここは母と毎夏訪れた思い出の場所=2009年9月5日

⑥ 父親とその配偶者からの虐待 天井裏からお宝発見
かつて母と私がいた家だが、父と再婚相手が暮らす家になんでもないところでオートバイを自分の膝に倒して骨折してしまった不自由な身を置くのは肩身が狭かった。父の再婚相手は母とは全然違うタイプの夫に先立たれた噂話の好きな女性だった。あからさまに「新婚家庭に邪魔しに来て・・・」と言われた。夜になるとセックスしている女の嬌声が聞こえてきた。私への嫌がらせがエスカレートしてきた。私の使うご飯茶碗にハエのたかる残飯(生ゴミ)が盛られていた。私が使うタオルをかけるところには、ある時血の付いたタオルがかけられていた。配偶者の生理の経血だった(と本人が言ったのである)。「きちがい女が生んだきちがい娘」とも罵られた。父親からは、「おまえなんか寮付きのキャバレーでも行け」と言われた。精神的には戦場のようだった。ただ、母と仲良しだった近所の女性が私のことを心配して世話を焼いてくれた。ありがたかった。私の頭皮には大きな円形脱毛症が現れた。
足の自由が少し利くようになると、子どもの頃、よくこもった天井裏へ上がってみた。ふと、上がりたくなったのである。なぜだかわからない。埃臭い生温かな空気が懐かしかった。薄暗い天井裏で、そこで母の旧姓の表記のある「江﨑清子様」宛の手紙がごっそり入った箱を見つけた。差出人はAとあった。数えてみると54通あった。
日付順に並べてみると、Aさんがすごく筆まめなのがわかった。ある同じ日付の消印で、ハガキと封書と、もう一つ速達の封筒があった。書いても書いても母への言葉があふれてくるような文面だった。だいたいは結婚前の母のことを案じる内容だった。
その中に、今でも忘れられないフレーズのハガキがあった。 「寒い。毎朝氷が張る。どうしているのかと思う。清子、清子がいないとなにもかも真っ暗だ・・・」 心が震えた。私は自分が“世紀の大発見”をしたのではないかと思った。
後日、そのハガキを大学の先生に見せた時、「学者の中の学者だけど、炎のようだね」と言われた。そのことを最近、先生とのラインで、
「ハガキをお見せしたことを覚えていらっしゃいますか? Aさんからの母宛の忘れられない言葉、それをご覧になって先生は、『学者の中の学者だけど、炎のようだね』とおっしゃったこと。あのハガキのフレーズ、ご覧になった先生の言葉が忘れられません・・・」と送ったら、
「よく覚えてますよ。世の中には仕方がないこともいっぱいあるんですね。残るのは恋心だけかな」と返ってきた。その先生は、植島啓司先生である。

母のお墓参りにバイクで行った帰り、宍道湖畔のカフェで撮ったお気に入りの写真。膝の骨折が治って気持ちが良かった

天井裏で発見した54通の書簡類は、今はもうない。
持ち帰って大事にしていたのに、数年後、私の留守中にやって来た父が全部廃棄してしまったのだ。そのことだけでも私は父を憎む権利がある。母が亡くなった後、カレンダーの裏に筆ペンで母の肖像画を描いた絵を壁に貼っていたが、その絵も父が棄ててしまった。私は突然すぎる母の喪失を十分に悲しむ時間が必要だったのに・・・。育ててもらった恩義はあっても、彼は同時に憎しみの感情を私に植え付けた。
大学の先生に見せておいてよかった。そして今でも植島先生があのフレーズを覚えていてくださっていることは一条の光である。

山陰の母の生家で祖母と。私が中学生の頃

膝の骨がくっついて足がほぼ自由に動かせるようになって、私は父と配偶者の暮らす家を出た。
その前だったと思う。父の配偶者から「あんた、お父さんの子やないんやてな」と言われた。ショックでもなんでもなく、やっぱりな、という感じで、むしろ清々した。愛されない理由がはっきりしたのだ。操作された婚外子だったことがわかってホッとした。私は滋賀県へ自分のオートバイを引き取りに行き、礼を言ってそのままオートバイで山陰の母の郷里のお墓参りを決行した。私より一回り年上の気の合う、母の兄の息子であるいとこがガソリン代をカンパしてくれ、私は萩や津和野の気持ちのいい場所へも旅することができた。

もし、オートバイで母のお墓参りに行こうとしなかったら、旅の途中で膝の骨を折らなかったら、父の家に行かなかったら、天井裏へ上がらなかったら、Aさんから母宛のたくさんの書簡を発見することはなかった。 あの「・・・清子、清子がいないとなにもかも真っ暗だ・・・」のフレーズにも出会うことはなかっただろう。
「計画された偶然」Planned Happenstanceを感じないではいられない。(続く)