⑦ 蓮をめぐる人々を訪ねて その1
関東のアパートへしばらくぶりに戻ってから、私は母からよく名前を聞いていたT先生に連絡を取った。大妻女子大学名誉教授のT先生は、1951年当時、東大農場と呼ばれていた東京大学検見川総合運動場の管理人をされていて、その地でハスの実の発掘調査への協力を周囲に呼びかけ、掛け合って資金を集め、Aさんの研究を支えていた陰の功労者だった。「大賀ハス開花」のニュースの裏で尽力された人徳者である。

T先生の存在がなければ、大賀ハス開花には至らなかった。そのあたりのことは、ご自身が記録された「ここを掘ればハスの実が出る」(東京大学検見川総合運動場四十年史 資料編にある学士会報1965年Ⅲ)に詳しい。
先生は自らが編集委員をされた「東京大学検見川総合運動場四十年史」=写真左=を「これはあなたが持っておきなさい」と、私に手渡してくださった。

母からよく名前を聞いていたT先生とは1987年ごろから数年間、何度もお会いして、お話を伺った。私が大阪に戻った後も文通し交流は続いた。息子を産んだこともお伝えした

横浜の元町でT先生にお会いした。25歳の時だった。先生は当時ほとんど80歳に手の届くお年で、知らない人が見たらおじいちゃんと孫娘のほほえましい姿に見えたと思う。霧笛楼というフレンチレストランでご馳走になった。 「私が母の結婚相手の子どもではなかったことがわかりました」と話すと、 「お顔見てピンときました。私はA先生の姪っ子さんとお会いしたことがありますが、似ていらっしゃいます」 と言われた。Aさんからの手紙のことを話す前に、先生からそう言われたのだった。

たくさんの手紙を見つけたことも話したら、先生は懐かしそうに母との思い出話を語ってくださった。T先生は母が結婚で東京を去る時、東京駅まで見送りにいらしてくださったそうだ。先生から母がよい働きをしていたこと、母は静かな、優しい、上品ないい人だったと語られるのを聴いて、とても幸せな気持ちにさせていただいた。先生ご自身も昔を懐かしめて幸せそうだった。霧笛楼を出て、山下公園のあたりを歩き、横浜のホテルニューグランドのクラシカルなカフェに移って、先生は「自分があらかじめ連絡を取っておくから、この人とあの人とにお会いなさい」と何人かの方々をご紹介くださった。いずれもハスの実発掘当時のことをご存じのご高齢の方々だった。

ご高齢の元PTA会長さんは検見川の大賀ハス発掘碑まで杖をつきながら案内してくださった

母からもよく名前を聞いていた千葉にお住いの方には、電車ではなくオートバイで会いに行った。ハスの実発掘調査に協力した地元の中学校の元PTA会長さんで、大賀ハス発掘碑建設委員会事務長をされた方だった。後で聞いたら硫黄島の激戦を生き残られた気骨ある人で、娘さんが運転する車に私も同乗させていただいて、検見川にある大賀ハス発掘碑までご案内いただいた。当時90歳を超えられていたが、杖をついて精力的にご案内くださった。発掘碑には日本語表記と英文表記があり、日本語の方は南原繁さんが監修された。 「人生は短く、学問、芸術は長く、宗教は永遠である」というAさんの言葉を刻んだ石碑=写真左=も見せていただいた。

Fさんにいただいた写真。前列左端が母・清子

千葉という地名は万葉集の時代からもともとハスがたくさん茂っていて、そのハスの葉がたくさんあることに由来するそうだ。顕彰碑や言葉を刻んだ石碑をひととおり案内していただいて帰宅すると、その老紳士は、「私は米の汁が好きでのう」と、日本酒を盃に注いで飲まれた。そして、「A先生は金を稼ぐのは下手だったが使うのは上手で・・・」とか、おもしろい話をされるのだった。電車で来ていればお酒のお相手もできたのに、惜しいことをした。 その後、報告するためにまたT先生にお会いした。月1回ペースで会食を共にしたと思うが、その時期私は東京の、ひとりでは到底入れない、名の通った良いお店にたくさん連れて行っていただいた。先生は母に好意を持っておられたようで「あなたといると清子さんとご一緒している気持ちになる。それにしては現代的な言葉がポンポン飛び出すが・・・」と言われたことがあった。 いつもご馳走になるのは心苦しくて、私は自分のホームグラウンドの渋谷のお店でお茶をご馳走したら、先生は視線をどこに持っていっていいかわからないという風で「いやぁ、困るんだ・・・」と言われた。若い女性に支払わせることに心底困惑しておられるようだった。なんだか悪いことをしているような気持ちになって、それから先生とはあまり会わなくなった。先生も遠出が大変になってこられた頃で、T先生とのデートは自然消滅した。 また別の日には、母の住所録にあった東京のFさんにもご連絡を差し上げた。FさんはAさんの弟さん(故人)の妻で、やはりクリスチャンの女性だった。若い母と、Fさんご一家の写った写真を私にくださった。

その方から「あなたは他人とは思えないのよ」と優しい言葉を言われた。上野の美術館へ絵画作品を出展されるような芸術家の女性で、娘さんは当時まだ珍しかった女性の指揮者だった。私は子どもの頃、母と一緒にNHKの音楽番組でFさんの娘さんがオーケストラの前に立ち、指揮棒を振る姿をよく見ていた。短髪でパンツスーツがよく似合う、とてもカッコいい女性だった。母の遺した手記に、Fさんのお宅を訪ねた時に、娘さんがチェロの練習をされていたという描写がある。

Aさんの弟さんもクリスチャンで、大手商社の取締役もされながら「東京光の家」の理事もされていた。母が昔、ライトハウスの仕事を手伝っていたのも、そういうつながりがあったからだった。母の遺品の中には、その弟さんの「歩みし跡」というハードカバーの本になった遺稿集がある=写真左。弟さんが亡くなられた後に、妻のFさんが、夫が書きためたものをまとめ、出版されたものだった。昭和52年2月10日発行(非売品)とある。そこに収まっている写真を眺めると、私の顔のつくりはAさんより弟さんに似ているような気がする。写真の弟さんと同じような角度で撮った私の顔写真を並べて友人に見せたら、「驚くほど似ています、そっくりです」と言われた。私とAさんは、額の狭いところと鼻の形は似ていると思うが、全体の印象は弟さんの方に似ていると思っている。(つづく)