⑧ 蓮をめぐる人々を訪ねて その2

多摩霊園に通っていた頃
25歳の頃の私はまさしくAさんの追っかけをしていた。ほとんどアイドルだった。天井裏で見つけた書簡の束に「もっと私たちのことを知って」と言われているような気がしていた。 休みのたびに、Aさんに縁のある人や場所を訪ねてまわった。多磨霊園のAさんのお墓参りにもカサブランカの百合の花を抱えて足しげく通った。今から思えば、多磨霊園には妻Uさんと眠っていらっしゃるので、私にお参りされるのはさぞ気まずかっただろうと思う。Aさんと妻の間にはお子さんがなかったので、Aさんの家系図はAさんで終わっている。親戚筋から養子に迎えられた男性があったようだが、その方は行方不明とうかがった。
そのAさんと親交があり、聞き書きを記録して出版された府中市の大西伍一さん(のち府中市立図書館長)の本に、Aさんは、「男の子がひとりほしいとつくづく思う」とつぶやいた、と書いてある。そういうつぶやきを母は聞いていたのか、なにか私が母の機嫌を損ねることをしでかすと、「男の子を生めなかった・・・」と残念そうにつぶやくのだった。「女の子に生まれて悪かったわね」と子どもの私は憎まれ口を叩いた。
私はフェミニストになるしかなかったのである。お勉強をしてそうなったのではない。私の魂から、抑えても抑えても突き上げてくるなにかがあったから、なのである。
生きていくことは闘いの連続である。

風が吹いてページの左上端がめくれてしまったけれど、探していたライフ誌を見つけて嬉しかった
国立国会図書館へも調べ物をしにオートバイでよく出かけた。ライダースーツで図書館に入ろうとしたら、「これこれ、いくつですか?」と呼び止められた。未成年に見えたのだろうか?「25歳です!」とムッとして答えた。アメリカのライフ誌に掲載された記事を探しに行ったのだったが、見つからなかった。ほかにもAさんの書を持って行って、「これはなんと読むのでしょう?どんな意味ですか?」と司書の人に尋ねた。「観無量寿経」という書があって、その意味を知りたいと言ったら「それは仏教の教えで・・・・」と答えてくれたが、私には消化不良だった。ライフ誌については、のちに母校の大学の図書館で聞いてみたら、当たり前にあった。嬉しくて、図書館の外光が入るところで、大きさがわかるように自分の赤いパンプスと一緒にカメラに収めて嬉しがっていた。
世田谷にある鷗友学園という女子中学高等学校も訪ねたことがある。Aさんが1951年の一時期教鞭を取っていたということを知ったからである。私は鷗友学園に電話をかけ、かつてこちらで理科の先生をしていたAさんのことを知りたいと、取材を申し込んだ。先方は「当時のA先生をご存じの理科の先生がいらっしゃいますので、その先生がお会いできる日をまたご連絡します」と返事をいただいた。ほどなくして鷗友学園から連絡が入り、当時一緒に理科の先生をされていたK先生が会ってくださるということだった。私はさすがにオートバイではなく、ワンピースを着て手土産を持って学園を訪ねた。学園の基礎を築いたのは石川志づさんという教育者で、やはり内村鑑三の門下生で、津田梅子の生徒だった女性である。「紫の君」と慕われたしなやかな女性だったそうだが、経営手腕というのか、力を発揮されてあれよあれよという間に学園を大きくされたとうかがった。
迎えてくださったK先生は、多分定年後しばらく経ったくらいのお年ではなかったか、長身で温顔にたたえられた笑みは一瞬で私の緊張を解いてくれた。いかにも紳士という感じで、いろいろご準備くださった写真や資料などを持参したカメラで撮影させていただいた。「鷗友生物」というガリ版で刷った理科の副教材を見せてくださったが、そこには読みにくいがAさんの書き込みがたくさんあった。その中で印象的だったのが、「天下一の師と、天下一の生徒がいなければ私は満足しない」という言葉だった。教育へのたぎる思いが伝わった。「厳しい先生でしたよ」とK先生はおっしゃった。

K先生に見せていただいた資料の数々
そしてごく最近になって、鷗友学園の卒業生である湯川れい子さんが、リアルAさんのことを覚えていらっしゃることがわかった。事務所へ問い合わせのメールを差し上げると、お忙しいにもかかわらず、すぐにお返事をくださった。
「A先生が鷗友学園かもめの友で何回か授業されたことがあり
私は中学3年生の時にA先生の授業を数回受けた記憶があります。
すでに2千年前の蓮の実を発芽させた後で蓮の話を聞いた覚えがあります。
ただ、中学3年生の女の子からするとすでにすごいおじいちゃまだったので
ある種の同情に似た好奇心はありましたが、それ以上の興味を持つことが難しく
校庭の花壇のそばの日向で親しく立ち話をしたくらいの記憶しかありません。」
湯川れい子さんに教えてもらったエピソードが映像になって私の目の前に浮き上がってくるようだった。

笑顔のSさん(右)と母。撮影場所は鎌倉とある
もうお一人、お訪ねした人の中で忘れられない方がいらっしゃる。母のアルバムに「茅ケ崎中海岸にて」とある2枚の写真で、アメリカのシカゴ大学のチェニー先生とAさん、ほとんど同じ位置でチェニー先生と母の2枚のツーショットがあるが、来日したチェニー先生の通訳をなさったSさんである。母より少し年上の、英語がご堪能な素敵な女性で、母と一緒にふたりで写った写真がある。母は白っぽい、7分袖のオーソドックスな襟付きスーツ姿で、その隣に、ライトブルーのノースリーブの首元の大きく開いたおしゃれなワンピース姿で、大きめのペンダントをつけていらっしゃるのがSさん。ピントはぼけているが、二人とも白い歯を見せて笑っているいい写真だ。
お会いした時はもういい感じにお年を召されたお茶目なおばあちゃまという感じだった。湘南なので私はオートバイで会いに行った。結婚はせず、妹さんの娘さんご夫婦と一緒に暮らされていた。Sさんの話によると、発掘されたハスの実の年齢を測定するのにアメリカシカゴ大学の原子力研究所へ、ハスの実と一緒に出た丸木舟のかけらを送って調べてもらった。Radio Carbon Testというらしい。「すると平均3000年と結果が出たのよ。巷で言う2000年、二千年蓮というのは、あれはちょっと、だいぶん控えめに寿命を言っている。日本人は控えめなのが美徳っていうでしょ」

母のアルバムに「茅ケ崎中海岸にて」とある2枚の写真のうちの1枚。チェニー先生と母・清子
シカゴ大学のチェニー先生は、茅ケ崎のSさんの家に泊まられたようである。当時のS邸は私が訪ねた時よりももっと大きくて、海まで行くのに他人の土地は踏まなかったとおっしゃった。昔のお宅の写真を見せていただいたが、ヨーロッパの貴族のお屋敷のような、ちょうど「美女と野獣」の映画に出てくるような長~いマホガニーか何かのテーブルに、アンティークな銀食器のようなセットが並んで写っていた。Aさんと母もS邸にお世話になっており、SさんはAさんの貧乏ぶりにびっくりされたそうだ。 「貧乏学者っていうのは聞いてましたよ。でもね、清子さんが洗濯物を洗って干していらしたんですけど、A先生の猿股にツギが当たってたんですよ」 多分そのツギを当てたのは母だったのだろう。 「清子さんは、静かで、控えめな、でもよく気がつかれる感じのいい女性でしたのよ」 と、オートバイで来たライダースーツの私に話してくださった。そして、しばらく前に亡くなったという仲の良い妹さんの形見のシルクのブラウスを私にくださった。淡いピンクの小さな花柄の上等のブラウスだった。(つづく)
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