今回のWANac2期では、論文の目次の発表を行いました。
論文の背骨となる目次をいかに構成するか。それぞれが頭を悩ませ、お互いに学び合いました。

《レポート-1》
第6回目が無事に終了した。今回私はタイムキーパーを担当したこともあり、全体の議論を少し俯瞰的に捉えることができた。9名の研究計画書発表と3名の目次発表が行われ、それぞれのテーマや進捗に差はあるものの、全員の研究が着実に深化しているのを感じた。問いの輪郭が明確になり、読み手を引き込む研究へと整理されつつある。

近ごろ、質的研究の意義が軽視されるような言説を耳にすることがある。しかし、この場で個々の発表を通して改めて思うのは、数では捉えきれない「一人の語り」にこそ社会の断面が現れるということだ。単なる事例の集積ではなく、「声」を通して見えてくる構造こそが、私たちがこの場で探っているものだと感じた。

うえの先生は20名近いメンバーそれぞれの研究計画に、的確なフィードバックを与えながら(いわば足場かけ=スキャフォルディングのように)論理の流れを補強していく。その指導の緻密さとスピード、そして一人ひとりへの寄り添いの深さには毎回圧倒される。教育に関わる立場として、思考の過程そのものをここまで丁寧に扱う姿勢に強く学ぶものがある。

また、メンバー同士のコメントも回を重ねるごとにスピード感と精度を増し、論文をより良い方向へ導くための具体的な指摘が目立つようになってきた。研究の質を高めるための「共同の場」としての成熟を感じる。

私自身も、今期は論文を仕上げ、この場で得た学びを形にしたい。ここは単なる発表の場ではなく、自身の問いを鍛え直すための実践の場である。その緊張感と刺激を糧に、次の一歩を確実に進めていきたい。


《レポート-2》
第5回研究会も9月末をもって無事終了いたしました。今回も、WAN AC第2期のスタイルそのままに、密度の濃い時間、緊張感のあるテンポ、そして高度なブレインストーミングが繰り広げられました。

ボランティアの皆さまへの感謝
まずは、研究会を企画・運営してくださっているボランティアの皆様に、心より感謝申し上げます。Zoom操作に不慣れな私から見ると、毎回、緻密に練られた企画と運営、突発的な状況への対応、そして司会やタイムキーパーの皆さまが一糸乱れず研究会を円滑に進めてくださる様子は、ただただ「素晴らしい」の一言に尽きます。皆様の多大なるご尽力あってこそ、私たちは効率的かつ効果的に研究を進めることができていると痛感いたします。本当にありがとうございます。

緊張と興奮をもたらす議論の時間
研究会における発表と議論の時間は、私にとって毎回、プレッシャーと同時に大きな刺激を感じる部分です。もちろん、先生が各発表に寄せられるご意見を伺い、そのご意見を丹念に咀嚼し、血肉としていくことは極めて重要です。同時に、私が発する自分のコメントに「どれだけの参考になる要素を提供できるか、私の意見は本当に意味があるのか」という、別の視点での緊張感も抱いています。先生のコメントは、常に私にとっての基準(理想的な目標)であり、限りなく近づくべき理想像でもあります。そのため、私は研究会当日、先生や皆さまがご意見を交わされる際に、事前に準備した自分のコメントを照らし合わせながら、内容を理解し、学ばせていただくことができるのです。このプロセスこそが、私にとっての研究会の「醍醐味」であると感じています。

研究計画と「料理のレシピ」
実は、自分の研究内容を準備する中で、「1年間のWAN AC研究会で、一体どれくらいの分量の論文を書き上げるべきか」という疑問を常に抱いておりました。第6回研究会では、皆さまが完成度の高い目次や研究計画書をご提示され、それを拝見したことで、私の中での「分量」に対するイメージが漠然とではありますが定まりました。先生が仰る通り、優れた目次は論文の全体像をほぼ見通すことができます。そして、質の高い研究の完成には、すべての要素が環となり密接に結びついていることが不可欠だと感じました。私は学術論文についての造詣は浅いものの、料理をすることが非常に好きです。皆さまの研究を拝見していると、様々な国やジャンルの「料理のレシピ」を眺めているように感じます。しかし、どのレシピであれ、調理の技法や基本的な原理原則は共通しているものです。私が掴みたいのは、まさにこの「共通の感覚」であり、それを土台として自身の料理(研究)をより美味しく(質の高いものに)仕上げたいと願っています。

個の苦悩の昇華と社会科学の意義
今回の研究会で、先生は研究とは、個々の事例の中から普遍的な理(ことわり)を抽出することだとお話しされました。これこそが、社会科学研究の根源的な意義だと、私も考えます。学問を志すことは、世界を知ることにつながります。もし個人の抱える苦痛が普遍的な意味を持つものであれば、その普遍性から人は慰めを得て、一種の「昇華」を遂げることができるのではないでしょうか。この研究会に集う同志の皆さまは、まさにそのような「苦悩」を出発点として集い、「学問」はその苦痛を昇華させるための手段であると私は捉えています。かつて大学の飲み会で、理系出身の日本人の学友が「文系の存在意義が理解できない」と述べた際、「生きて人間である(to be or not to be)、その問いを考える上で、文系はきっと力になるでしょう」と私は答えました。そして、「女性として生きていく」(As a woman, to be or not to be)という問いかけこそ、今、私がWAN ACで探求しようとしている意義に他なりません。

結びにかえて
話が少々脱線いたしました。最後に、上野先生の惜しみない、情熱溢れるご指導に心より感謝申し上げます。先生が火のように私の心を照らしてくださり、励ましてくださるからこそ、私はこれからも切磋琢磨し、不断の前進を続けることができます。外国人である私に対しても、WAN ACの皆さまは常に包容力があり、温かく、細やかなご配慮をくださいます。「空気が読めない」ところがある私でも、皆様のおかげで心置きなく研究会に参加させていただいております。もし私の発言やコメントに日本語として不十分な点がございましたら、どうかご容赦いただけますと幸いです。しかしながら、実は私は、研究会を通して「局外者(アウトサイダー)」という立場を毎回楽しんでいます。今後も、その「局外者の視点」を活かし、社会観察と研究を続けて参りたいと考えております。