<てるてる Reading Circle とは?>
2012 年に⼥性学(「⼥性の⼥性のための⼥性による学問」)の第⼀⼈者である故井上輝⼦先⽣が和光⼤学を定年退職後「⽊曜研究会 」をスタート。2014 年度に「GF 読書会」と名称変更し、WAN サイトの⼥性学講座コーナーに半期ごとの活動報告を掲載。2021 年に井上先⽣が逝去された後は「てるてる Reading Circle」として、オンラインで活動中。メンバーはさまざまなバックグラウンドの 20 ~ 70 代の⼥性たち。現在新メンバーを募集中。ご連絡はこちらまで:teruterurc@gmail.com

<著者紹介>
大人の求めるような子どもらしい子どもではなく、幼少期から思い悩むことが多かった著者は、高校で不登校になり通信制の高校を経て大学に行き、哲学を専攻し、大学院を中退。「問いを発してよい」という教育をされてこなかった著者は、地元の女性センターのフェミニズム講座を受けて「疑問を持っていい」ということを学んだという。非常勤や派遣で働き、一時は生活保護も受給しながら、貧困や労働問題に関する執筆活動や社会運動に携わっている。

<書籍紹介>
正規労働者と非正規労働者は「身分」のように固定化されており、その移動がきわめて困難な時代が長年続いてきた。以前だったら伝えるのに困難だった賃労働への醒めた感覚は少数派ではなくなり、商業媒体の出版社から原稿依頼がきて「<働けない>側から考えるあたらしい労働論」が生まれた。賃労働という枠組みで働いたり、働けなかったり、あるいはその繰り返しで働く意欲とはなんなのかよくわからなくなったロスジェネ世代の著者の視点で、あらためて賃労働を語った本である。
 しかし、取り上げたのは賃労働だけでない。「家事」と呼ばれる雑務、エッセンシャルワーク、フリーランスの仕事、ボランティア地域活動や社会活動。さらには病人・障碍者であること、いじめや暴力、性暴力の被害を受けてサバイバーとして生きていくことも「仕事」としてとらえ直している。従来なら「仕事」や「労働」に組み込まれてこなかった属性や存在、ケアを受ける側、助けられる側の立場からこそ行いうる「しごと」や「はたらき」があり、それについても語られているのが、本書の特色である。
 働きたくないのか、働けないのか煮え切らぬ心性のまま仕事をし、仕事に距離感がある著者が、解決策はなくとも言葉にすることの意味は大きいと信じて、同様の思いの中で仕事をしている読者に心を込めて捧げた一冊である。著者の立ち位置をより理解するのに、2019年刊行の『ぼそぼそ声のフェニミズム』もお薦めしたい。   

<読書会を終えて>
 メンバーは自身の体験を通して、読後感を語りました。
・現役で働いていた時、同僚に休まれて負担が増すと、相手を責める気持ちが起こり自分の中にも「働かないこと」に対する毒があったと思う。
・労働と同じく出産のことも英語ではLaborと表現すると知り、驚いた。育休で他の人にしわ寄せがいっているかもしれないが、出産している本人は労働しているということですよね。身体を痛めても子どもを出産し、世話をするというのは、まさしく労働なんだと気づかされた。
・引っ越しや老親の介護を通して、賃金の発生しない家事とかケア労働について、家族全員が考える機会を得た。お金を稼いだとしても、それを使って自分が生活していくには、協力してケア労働・家事労働をしなければ、食べることも衛生を保つこともできない。ひとりに負担が片寄ってはだめで分担して行う。それらのことをやっと家族の中で共有できる状況になった。
・頑張らない人を責めて終わりにするのでなく、能力の発揮の仕方、できることをできる範囲で組み立てるようにしていかないとつらい思いをする人を増やすだけだ。
・働くことがお金に換算されていて、賃労働であることに焦点が当たってしまっている。それゆえに「損した」という気持ちが出てきてしまうと、相手に非難が向かってしまう。
・地方女子の生きにくさ。子育てやUターンすれば、いくら給付するというような女性をもののように扱い、子供を産ませることに焦点を当てた政策ばかりがなされている。
・最終項「ポイ活―消費の導火線、あるいは労働の残滓」での、ポイントの胡散臭さや怪しさの指摘には、自分がいかに安易な消費活動に流されていたかと愕然とした。

「解決策はなくとも言葉にすることの意味は大きいと信じてこの本を書いた」著者からのメッセージは、確かに読書会メンバーに共有されました。

「働けない」をとことん考えてみた。

著者:栗田 隆子

平凡社( 2025/02/18 )