ある三朝山頂書
昨年は戦後80年で、戦争を忘れないためのさまざまな取り組みがなされました。ですが、年が明けたから、もう戦争については言わない、となっては困ります。
歴史家でも社会学者でもない私ですが、私としても戦争について言っておかなければいけないことがあります。女書に出てくる戦争です。
長年中国の女書とつきあってきて、昨年は2度この欄に書きました。11月号は、大事な大事な伝承者何艶新さんを失って嘆きのエッセイでした。
また、女書ですか、などと言わないでください。女書は女性の文化創造力のシンボルのひとつです。従来皇帝とか学者が創るものだった文字を、女性が作って数百年も使って来たのですから。その文字で書かれたものも、中国江永県の社会と歴史を伝える大宝庫です。今回は女書で書かれた、またその女書の周囲の人々の日本との戦争を取り上げてみます。
1993年以来、何度も何度も江永県を訪ねて、女書の伝承者を探し、女書で書かれた資料を集める旅を続けてきました。90年代に亡くなった伝承者が女書で綴った伝記を読み、さらに埋もれた情報はないかと村々へ足を運びました。いろいろな村でいろいろな人の女書の話の合間に出てきたのが日本軍の侵略時の悲惨な話でした。
こういう物を見たことはありませんかと、女書のバイブルとされる三朝書のサンプルを見せると、母が持っていたけど日本軍が来た時焼かれた、といった具合で日本軍とつながっているのです。1990年代はまだ戦争の記憶が新鮮でした。
最初に聞いたのは、1993年初めて江永県を訪れた時です。昔の女性たちが縁日の時など集まって女書を学び合った娘娘廟を訪ねる途中でした。案内してくれていた地元の女書研究者周碩沂(1926-2006)が、突然、この道を日本軍が通った、あの洞窟に村人は隠れていたと、山陰の暗くなったところを指さしたのです。わたしは全く不勉強で、日中戦争の時にこの地に日本軍がいたことがあるなど、考えたこともなかったので、大変ショックを受けました。周は自分も捕まりそうになったけど、何とか逃げた、捕まえられて戻ってこなかった村人も何人もいた、と淡々と語ります。突然のことで心の準備もできていなかったわたしはただ、申し訳ないとうなだれるほかありませんでした。
その後、昔の女性が女書を書いた物なら何でも見たいと探しているうちに、義年華(1907-1991)という女書の良くできた女性の自伝が見つかりました。義の孫娘がこういうのがあると言って見せてくれたものでした。幸い女書に並行して漢字も書かれていました。自分の先祖のことから書き起こした長大な自伝でしたが、それを読み進めていくとやはり日本軍の事が書かれていました。その一部です。
三十三年走日本 33年日本軍がやってきた
母女逃難十難当 母子逃げ惑い苦難に当たる
帯着女児山中躱 娘の手をひき山中に逃げ
無夫担米泪流双 米担ぐ夫(つま)なくまた涙
想起万般授尽苦 苦労に苦労をなめ尽くす
走入岩洞心害怕 洞窟に隠れて心細く
…
受尽大雪難安身 大雪に見舞われ身を隠す所なし
日本振去親家弟 日本軍義弟を連れ去り
住在山中幾個月 山にあること数か月
受尽寒霜雪上眠 厳寒に耐え雪上に眠る
33年というのは民国暦で、西暦にすると1944年です。夫を既に亡くしていた義は幼い2人の娘を連れて山に隠れ、寒さに耐えて苦労をしました。
そのころの日本軍の動きを今井武夫『近代の戦争5 中国との戦い』(1966)や防衛庁の『戦史厳書』(1968)で調べてみますと、
「日本軍は華北と華中を通じる大陸打通作戦を貫通する必要のため、1944年1月から12月まで鄭州、洛陽、長沙、桂林、柳州などの地を1500キロを転戦し攻略していった、その中で6月には湖南省の省都長沙を占領し、9月には永明(今の江永県)を占領した」
と、書かれています。確かに江永県は9月に占領されています。
ですから、義の「33年日本軍がやってきた」のは史実です。義の自伝は1944年の9月ごろのことを歌っているとわかります。歌ですから多少の誇張はあるかもしれませんが、義弟を連れ去られ、母娘が山の洞窟に潜んでいたことは事実でしょう。
村々で聞き取りをしている時も、偶然、この日本軍の話が出てくることがあります。代表的な伝承者のひとり高銀仙(1902-1990)の息子の胡錫仁に母親のことを尋ねているうちに、やはり日本軍の侵略に話が移っていました。胡の姉が殺されたというのです。
「戦争のころ、姉の胡煥朝(16歳)は浩塘村に嫁いでいた。民国33年10月、家族はみな逃げたが、姉は逃げ遅れて1人家にいた。日本兵に強姦されそうになり反抗したので殺された。日本軍は何度もきた。自分は当時6~7歳、来るたびに母に背負われて川を渡って逃げた。人がいなくなり残った豚は殺された。3回逃げた。高いところの陰に隠れたのを覚えている。村で1人の女性が強姦された。他の村で殺された人の死体がたくさん川を流れて来た。
日本軍は人を捕まえて軍隊の荷物を運ばせた。年齢分のキロ数を運ばせた。人が逃げた後へ来て食糧をとりあげた。飛行機もたくさん来た。朱家湾では爆弾を落とした。下新屋では機銃掃射で殺された人がいた。」
話を聞いたのは1994年ごろです。そのころはまだ戦争の記憶も鮮明でした。
2004年に亡くなった陽煥宜(1909-2004)も、2001年に訪ねて、地元に伝わる女書で書かれた抗日歌について聞いている時、
「軍隊が来た。みんな長い皮の靴を履いていた。豚を捕まえて殺した。」
と、突然言い出しました。何かきっかけがあれば戦争の記憶がすぐ蘇るのです。
国家級伝承者にまで上り詰めた何静華(1939-2019)も、子供のころのことを聞いているうちに戦争の話になっていました。
「戦争の時、允山鎮渓州尾村(今この名の村はない)にいた。日本軍から逃げて山に隠れた。山から下りてきたら家は残っていたが、中の物は何も残っていなかった。日本鬼子が食物をみんな持って行った。洞窟に食糧を隠してあるのを知って日本軍が洞の中に火をつけた。一部の人は中にいて逃げ遅れて死んだ。親戚の娘が2人焼け死んだ。顔にやけどが残っている息子も親戚にいる。
自分の記憶では子どもの時、母に背負われて洞窟にいた。長いこと隠れていて、そろそろ親戚に行ってみようと、やっと洞を出た所で日本軍に遭った。逃げる所がなくて茶の木の下に隠れた。きれいな娘が逃げて来た。赤い服のきれいな娘だった。日本軍がその娘を追っかけて行ったので、こちらに隠れていた人は助かった。娘がこちらに走って戻ってきた。そうなると日本軍もまたこちらへ追って来るので、こちらにいる人も怖くて、娘に別の方へ逃げろと追い返した。娘が別の方へ逃げて行ったので、印象に残っている。」
きれいな娘を追い返して日本軍の餌食にさせ、自分たちが助かるという村人たちのむきだしのエゴも戦時下ゆえの真実でしょう。
そして昨年亡くなった何艶新も言っていました。
「5歳の時 日本軍が来た。祖父母は逃げた。豚も鶏も全部持っていかれた。娘は掴まると強姦されて殺された。自分は5歳だったから無視された。」
そのほか、三朝書を探している時の1例も最初に述べましたが、
「 たくさん持っていたが日本軍が来てみんな焼かれてしまった。」
「三朝書を1冊持っていた。日本軍が来て逃げて、戻った時全部なくなっていた。」
などの話もよく聞かれました。
中国の湖南省江永県で日本軍が行ってきた残虐非道な仕打ちは、村人から聞くまでは信じられないことばかりでした。でも、日本から来た私に村人たちが、それぞれ別の所で同じような体験を、ぽつりぽつりと話してくれるのを総合すると、どうしても信じないわけにはいかなくなります。子どもの時に見聞きしたことなど、嘘をいう必要もないでしょう。
南京虐殺もなかったと言い張る人が増えてきています。なかったと言いたいことはわかりますが、やはり事実は事実として認めないわけにはいかないでしょう。女書とその村の人たちから聞きとったことばは、ごく限られた狭い地域のことではありますが、日中戦争の一つの真実ではあります。小さいところから見える真実を共有していただけたら嬉しいです。
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