
2026年3月8日(日)、国際女性デーに、1995年以来、30年ぶりに再開された「女+フェスティバル」2026(主催・女+フェスティバル実行委員会、後援・京都市、助成・ウィメンズアクションネットワーク(WAN)基金)に参加しようと、ワクワクしながら近くのウィングス京都へ向かった。
年度末の仕事が立て込んでいて、いつもは10時前には就寝するのに、ここ数日、12時近くまでパソコン業務に追われて、くたびれていたけれど、この日、朝9時半~午後4時半まで丸1日、たくさんの女たちと出会い、メインシンポジウムと4つの分科会のお話をたっぷりと聴くことができ、すっかり疲れもとれて元気になった。
Peatixでの事前申込みが、よくわからず、娘に聞いても「一人でやりなさい」と言われて仕方なく自分で登録する。当日は会場いっぱいに人が溢れて200人以上の参加者があったとか。協賛団体も40団体以上にのぼった。「ああ、よかった」と、ひと安心。
何十年ぶりかでお出会いした懐かしい女たちや韓国から来られた方も含めて、中身の濃い充実した「集会」(この言葉も、もう死語になっているのかな?)となった。流行りのオンライン参加も便利だけど、こんなふうに対面で直接、女たちが言いたいことを思い切り、おしゃべりしあえる時を、ゆっくりもてたことに心からの感謝を。来年も再来年も、ずっとずっと続けてほしいな。
リブとフェミニズムと女性学が、ともに在った頃、1986年~1995年までの10年間、京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)で「あなたがつくる女のフェスティバル」が開かれ、参加者が1000人を超える年も何度かあり、10年で延べ参加グループ184団体、展示参加は72人と11グループとなった。ウィメンズブックストア松香堂の中西豊子さんたちが、「思い切り声を出し、からだを動かし、みんなで楽しみませんか?」と呼びかけたのが始まり。第1回の、あまりの反響の大きさに翌年も、また翌年もと、とうとう10年も続いた。何かを訴えたい女たちが、同じ思いの女たちとの出会いを待っていたのだ。
準備会は12月に一度きり。松香堂2階の畳の部屋に50人あまりが集って、わいわいガヤガヤ、床が抜けるのではないかと本気で心配するほど。すべて自主管理で、収入は参加費500円のみ。京都アスニーの館長から「補助金を申請しませんか?」と誘われても中西さんたちは断り、集まった参加費の余剰金を翌年のメインシンポに補助金として出し、東京強姦救援センターに寄付したこともある。その頃、女たちの運動は「西高東低」、関西、とりわけ京都の女たちは元気だった。
「ネットワーク」と「マネジメント」は、どちらが欠けても運動は前に進まない。「女たちは、そんなこと、ずっと前からやってきたわよね」と中西豊子さん。男の運動は赤字を出し、内部対立を起こして消えていったが、女たちの運動は地道に細く、長く続いてきたのだ。
「たくさんのグループが参加できるように」と同じ時間帯に部屋を分けて同時進行型ワークショップ形式を編み出したのも、この会がハシリではなかったかな。さまざまな企画や展示、表現活動、バザーが、一日中、賑やかに繰り広げられていった。
プログラムも、さまざま。「アジアの女たちと手をつなぐ」(アジアの女たちの会)。「もっと知ろうよ女のからだ」(日本女性学研究会)。「原発・命あるものとして「知らない」とは、もう言えない-チェルノブイリその後」(京都エスペラント会)。「戦争・天皇・女-昭和・平成を斬る」「反天皇制・「日の丸」「君が代」反対」(戦争への道を許さない京都・女の集い)。「セクシュアリティは選べるか?」「ゲイとレズビアンは出会えるか」(関西ヤンチャ・レズビアン・パワーと大阪ゲイ・コミュニティ)。「フェミニズムは政治と出会えるか」(婦人民主クラブ京都協議会)。「世界が見ている日本の女の働き方・働かせ方」(おんな労働組合・関西)等々、タイトルも中身も各グループが自由に選んで語り合っていった。
(「リブとフェミニズムと女性学が、ともに在ったころ」やぎ みね(2011.7.20)
2026年3月8日、40年前に「女のフェス」を始められた中西豊子さんも来てくださった。なんでも人より一歩早く、女の問題を解決しようと口火を切り、スタートした運動が順調に進み始めるやいなや、さっさと次の人にバトンを手渡し、あとは一切、口出しをされないのが、いかにも中西さんらしいやり方だった。この日、舞台から請われて一言、ご挨拶をされた。92歳。今もとてもお元気で、ほんとにうれしい。

オープニングは「ウトロ農楽隊」の演舞。1990年3月5日、第5回「女のフェスティバル」でウトロのオモニ、ハルモニたちが、家父長制の強い韓国・朝鮮社会の中で「戦後補償」を訴え、生まれて初めて舞台に立つ。チマ・チョゴリを着て農楽隊のデモンストレーションとともに。それがきっかけとなり、彼女たちが韓国を訪れ、ウトロの実情を訴えたことが韓国でのウトロ支援の始まりとなった。
戦前、日本陸軍の京都飛行場建設のため、朝鮮人労働者が徴用され飯場に集住する。敗戦後、強制立ち退きや地上げ圧力に抗して、韓国青瓦台(大統領府)の協力もあり、ようやく2018年、市営住宅に入居。下水道整備も完成し、2022年4月、ウトロ平和祈念館がオープンした。その運動を支えてきたウトロ平和祈念館初代館長の田川明子さんは、「ウトロのオモニ、ハルモニたちが立ち上がった最初の一歩は、女のフェスティバルの舞台に彼女たちが立ったからだったのよ」と語っていた。ふぇみん婦人民主クラブ京都洛友支部の仲間でもある田川さんは、ウトロ平和祈念館ができて2年後、ご病気で亡くなられた。いい人ばかり先に逝ってしまわれる。悲しい。でも彼女の意思を若いボランティアの方々が、しっかり跡を受け継いでくださっている。この日の演奏も彼女にぜひ聴いてほしかったなと思う。
(「差別」は、司法で裁かれるのか?(旅は道草・152)やぎ みね(2022.9.20)
そして「基調提案」(女+フェス実行委員会)のあと、斎藤真理子さんのお話。聞き手は栄井香代子さん。タイトルは「なぜ今『女のフェスティバル』なのか?~この30年、振り返ってみよか」。
チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジョン』やハン・ガン『別れを告げない』など多数の翻訳書で知られる斎藤真理子さんから「講演より対談を」と希望されたとかで、「SOSHIREN女(わたし)のからだから」合宿以来の友人・栄井香代子さんとの対談になったという。「身体」と「ことば」の深いかかわり、韓国の女たちが、ハン・ガン著『別れを告げない』にあるように、「過去を哀悼で終わらせない」、つまり過去の辛い歴史の「弔い合戦」ともいうべき強さをもって女たちが今、運動を進めているのではないかと、韓国の女たちの力強い動きを語ってくださった。
その後、「女+フェス」実行委員会メンバーからの発言と斎藤真理子さんとのフリーディスカッション。戸籍・ネットワーク・労働・ケア・反差別・身体の権利など女たちをとりまく様々な課題が、30年前も今も変わらない。それについて実行委員会メンバーから斎藤さんへの問いかけと応答の中で、女たちが今、考えていること、行動していることが率直に語られ、互いに思いを深め合う交わりが生まれていくのを、お話を聴いていて深く納得した。また当日のパンフレットに記載された実行委員会メンバーの「自己紹介」も、なかなか読み応えがある。
午後は4分科会を開催。①部落フェミニズムから広がる地平。②個人的なことは政治的:みんなで話そう!多文化共生。③自分を大切に 自分を守るために 言いたいことを言おう。④なめたらアカンで!女の労働~何が評価され、何が排除されるのか~。どの分科会も参加したいなと思ったけど、私は④に参加する。
第4分科会「なめたらアカンで!女の労働~何が評価され、何が排除されるのか~」。講演はペイ・エクイティ・コンサルティング・オフィス(PECO)の屋嘉比ふみ子さん。コーディネーターは伊田久美子さん。部屋は女たちでいっぱい。屋嘉比さんの、現在の女の労働実態に即した的確で豊富な資料をもとに納得のいくお話に頷くことばかり。非正規職員や会計年度任用職員の雇い止め問題などフロアからも切実な発言が続き、ほんとにそうだ。「なめたらアカンで!女の労働」と思った。
「男女賃金格差の実態」「なぜ男女賃金格差は解消されないのか?」。それは女性の能力は習得した能力よりは女性の自然な特徴であると見なされ、過小評価されているから。だから「女性ユニオン運動が必要」と屋嘉比さんは言う。それは彼女自身の闘い、和解全面解決を勝ち取った「京ガス闘争」にもつながっていく。さらに森ますみさん、朝倉むつ子さんの分析により、「同一労働同一賃金原則」と「職務評価の平等性」が国際的にも実証されているにもかかわらず、安倍政権下にできた「働き方改革関連法」は、あくまで「日本型」としか言いようのない「同一労働同一賃金」にすぎなかった。しかもその最後に附記された「その他の事情」により、あろうことか、「正」と「非」を分けて「職務内容」の違いを殊更に採り上げた結果、2020年10月、最高裁は「正社員と有期契約社員の退職金の待遇差は労働契約法20条に違反しない」という「不当判決」を出したのだ。メトロコマース事件と大阪医科薬科大学訴訟の最高裁判決に。しかも大阪医科薬科大学訴訟の最高裁裁判長は女性だったのだ。なんということか。
しかし屋嘉比さんは決して諦めない。ジェンダー平等社会をめざす「ジェンダー・バイアス」の研修や職場や地域、全国での女性たちの連帯とネットワークを今も粘り強く呼びかけ続けている。
実は屋嘉比さんと私の出会いは40年前に遡る。1980年代、屋嘉比さんたちが立ち上げた「おんな労働組合・関西」に屋嘉比さんからオルグされた私。でもその時、専業主婦だった私は、それに応えることができなかった。その数年後、五木寛之著『内灘夫人』に憧れて内灘闘争の地、内灘の海へ「離婚旅行」に向かい、京都に戻ってすぐ職安に行ったが、40歳すぎの専業主婦の私に「残念ながら適当な職はありませんね」と職員に言われた。やっと見つけたお蕎麦屋さんに非正規で働いていた時、たまたま中西豊子さんが自宅に来られて、「女性問題を扱う編集企画会社「フェミネット企画」を立ち上げるから、あなた、来てくれない?」と誘われて幸運にも中西さんたちと働くことになった。
離婚後も元夫に頼まれ、舅の夕御飯をつくりにいく私に、中西さんから「あんたはフェミニストの風上にもおけない女ね」と叱られながら、うれしいことに資料『日本ウーマンリブ史』全Ⅲ巻の編集にかかわらせていただき、また私も婦人民主クラブ京都協議会から参加していた「あなたがつくる女のフェスティバル」の企画・編集にも携わることができたのは、今も忘れられない懐かしい思い出の一つだ。
最後のイベントホールでの全体交流会。会場のあちこちから手が上がり、報告と感想、質問が相次ぎ、活発な討論の場となった。年配の方から若い人たちまで、言葉になりにくいモヤモヤとした思いを、きちんと自分の言葉で語る女たちが、こんなにもたくさんいるなんて。女の思いは一本の糸でつながっているんだと思った。
女+(プラス)の意味も含めて、きっと来年はもっと広がりを見せてくれるのではないかと期待しながら、夕刻、帰途に着く。この日、「女+フェスティバル」2026に参加できて、ほんとによかった。ありがとう。また来年も、お会いしましょうね。










