今月はフランス人のナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger )をお送りします。作曲家、指揮者、とりわけ教育者としての彼女は、後年、世界的な名声を得た弟子を多数輩出しました。このエッセイでは、早くに筆は折ってしまったけれども、実は素晴らしい作品を残した「作曲家」としての部分に陽を当ててお送りしたいと思います。

 1887年にパリに生まれ、1979年同地で亡くなりました。父親のアーネスト(1815-1900)は作曲家としての活動を経て、後年はパリ音楽院声楽科教授として活躍しました。妹のリリ(エッセイII-4参照)も作曲家として、父と同様にローマ大賞を受賞しました。母親ライサ(1856-1935)は、ロシア貴族出身で父親の個人レッスンを受ける声楽の生徒で、40歳の年齢差がありました。親戚にも名声を博した音楽家が数々存在しており、まさしく音楽名門一家の下、生まれ持った才能を育みました。

 妹のリリ(1892-1918)は病弱で、その後クローン病も発症し、父親は6歳上のナディアに妹の誕生間もなくから面倒を見るよう託し、実際ナディアは、自ら使命感を持って妹を大層可愛がりました。パリ音楽院の児童科に通う際は、時には妹の手も引き授業を見学をさせ、時には一緒に演奏もし、妹を音楽の世界へ誘ったのは何より姉のナディアでした。

 幼少のころは、音楽家として忙しい両親と絶えず音楽にあふれた家庭環境にうんざりし、音楽を拒絶さえしていました。しかしながら、ナディアが5歳の時、母親がリリを妊娠したことをきっかけに、音楽に対する気持ちが突然変わり、父親に声楽のレッスンを受け始め、それ以降はすっかり音楽に魅了されました。好んでピアノ曲の初見もし、これには両親も驚きを禁じ得ませんでした。

 父親のアーネストが1900年に亡くなり、ナディアは13歳,、リリは7歳、母親もまだ若く、大黒柱の急な死は一家を深い悲しみと家計の逼迫という奈落の底に落としました。

 ナディアはパリ音楽院でガブリエリ・フォーレの優秀な弟子として既に頭角を現しており、とりわけ和声が得意分野だったため、自宅で和声の個人授業を開講しました。母親も生来の座持ちの良さから、勉強のあとはお茶やケーキで生徒達をもてなしました。一方で、母親は夫の声楽曲をコンサートにかけ収入を得ようとしましたが、アマチュアの域を出なかったため、思ったほどの収入になりませんでした。

 まだ若くて心許ない母や妹と暮らす環境では、長女はしっかり者にならざるを得なかったのかもしれません。ナディアの始めたクラスは、その後「水曜サロン」と名づけられ、生涯にわたりサロンを続け、出席者は、すでにプロとして活躍する音楽家から現役の学生たちまで、年を追うごとに刺激に溢れたサロンに成長しました。評判を聞きつけた著名人も見学に加わり、モナコ王妃となったグレース・ケリーもいました(サロンの風景は下記の動画リンクを参照)。

 ナディアとリリのブーランジェ姉妹、1913年

ナディアと水曜サロンの弟子たち、1923年。右後方はアメリカ人作曲家コープラント


 この間、父親の受賞した「ローマ大賞」をめざし研鑽も続けましたが、計3回の挑戦で、1908年の次点が最高位でした。作品への評価は高く、賛否はありましたが、それっきり応募はしませんでした。この後、1913年に妹リリがローマ大賞を受賞、女性初の快挙でした。リリを音楽の世界に誘い基礎を教えたのは何よりナディアで、姉妹の仲は良かったとされていますが、それでも妹の圧倒的な才能をナディアほどの人が見抜かないはずもなく、妹の才能の前では作曲はするべきではないと結論を出し、かねてよりクローン病を患っていたリリが1918年弱冠26歳で命を落とすと、すっぱりと作曲への筆を折りました。

 フランスを代表する大作曲家のモーリス・ラヴェル(1875-1937)はローマ大賞を受け続けましたが、5回の挑戦で結局は2位に留まりました。すでに作品は高評価を得ていたため、この結果に賛否も呼びましたが、受け続けることにためらいはなく、これをナディアと単純に比べても、そこには妹への愛情と、偉大な父親への大きな尊敬と、また自分を冷徹なまでに見つめ、自らの作品は評価しなかった、言ってみれば「完璧主義」の気質も窺い知ることが出来ると感じました。

 1921年からフォンテンブローでアメリカの若き才能を育てるアメリカの教育機関に従事し、カーター、コープラント、ピストン等、その後のアメリカ音楽をけん引した作曲家を育て、長生きだったことから、更に世界各国の数えきれない弟子を育てました。ナディアの死後2年でマイケル・ジャクソンの伝説の名作「スリラー」を世に出したクインシー・ジョーンズもその1人で、とてつもなく強い女性だったとナディアを表しています。エスプリにあふれたジャズピアニストのミシェル・ルグランも弟子の1人でした。つい最近、80歳のお祝いコンサートが話題だったピアニストのバレンボイムも、レッスンは高度で厳しく、J.S バッハの平均律プレリュードとフーガを、いつでも調性を変えて暗譜で弾くことを要求されたと述懐しています。ガーシュインを聞いた際は、あなたは私の指導は必要はない、すでに完成されている独自の世界を更に広げていきなさいと、○○門下のカラーと言った枠組みに弟子を押し込めず、それぞれの個性を尊重しながら導く教育は、弟子たちの力量と同時に指導者の能力の高さ、精神性の豊かさ、深い洞察力や人間性も要求されます。


 作品の1つ「オーケストラとピアノのためのファンタジー」1912年作は、ピアノとオーケストラの働きが平等になされており、ダイナミックなピアノの効果は素晴らしく、コメント欄には、これほどの作品がなぜ世に出ていない?とお書きの方も散見され、筆者も全く同じ気持ちです。何度も書き換えを行い、最終的には共作した作曲家の手により完成されたと言われています。

 「チェロとピアノのための3つの小品」はオルガン作品がオリジナルで、チェロとピアノで編曲されています。第1番は綿密に書かれた内声と呼応しながら朗々と歌うメロディが絶妙なハーモニーを彩り、小品とは言え彼女の作曲家としての力量の高さが分かります。

 ピアノ独奏曲「Vers la vie Nouvelle 」1918年作(新しい人生に向かって(筆者訳))は、延々と繰り返されるドローントーン(低音)とメロディ、素晴らしい作品です。楽譜は長いこと入手困難でしたが、最近フランスアマゾンで見つかり、いずれ必ず弾きたいと感じさせる作品です。

 このほか合唱とオーケストラの作品、歌曲も数多く、歌曲についてはこの記事の下に音源を掲載しました。

 これほどの才能を封印してしまったナディアを、師匠のフォーレにして《間違いだった》と言わしめましたが、自分の選択は正しかったとご本人は述懐しています。家族という親密な関係に宿る複雑な感情と元来の厳しい性分も相まって、もし、妹が弟だったら、もし、ご自身が妹だったら、それでも作曲は断念したのだろうか?等、様々な思いが巡ります。もったいなかったと思います。亡くなった後は妹と一緒のお墓で眠っています。

 この度の音源は、チェロとピアノで編曲されているオルガン作品「Improvisation〜即興曲 」をピアノ演奏でお送りします。

出典
『ナディア・ブーランジェとの対話』ブルーノ・モンサンジャン著、 佐藤祐子訳、音楽之友社 1992年第1刷
水曜サロンのレッスン風景 Mademoiselle (Nadia Boulanger)
ナディアへのインタビュー風景(英語のサブタイトル付) Interview with Nadia Boulanger
エリオット・カーターへのインタビュー
Elliott Carter on studying composition with Nadia Boulanger and developing his style

以下は作品の音源です
Nadia Boulanger - Elegie for voice and piano (audio + sheet music)
Nadia Boulanger Fantaisie pour piano et orchestre
Nadia Boulanger - Trois Pièces pour violoncelle et piano | Cheng² Duo
Nadia Boulanger: Vers la vie Nouvelle (1918)
The greatest music teacher who ever lived - BBC Culture
(41) Nadia Boulanger: J’ai frappé | Nicole Cabell - YouTube
(41) Nadia Boulanger - Soir d'hiver (1915) - YouTube