エッセイ

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リブとフェミニズムと女性学が、ともに在ったころ  やぎみね 

2011.07.20 Wed

 リブとフェミニズムと女性学が、ともに在ったころ、京都では「あなたがつくる女のフェスティバル」が開かれていた。

 1986年3月8日の第1回から1995年の第10回まで、3月の国際婦人デーにあわせて、年に1度の「女たちのネットワーキング」が広がっていった。参加者が1000人を超える年も何度か。10年で延べ参加グループ187団体、展示参加72人、11グループとなった。

  ウィメンズブックストア松香堂の中西豊子さんほか4人が、「思い切り声を出し、からだを動かし、みんなで楽しみませんか?」と呼びかけたのが、はじまり。第1回の反響の大きさに、翌年も、また翌年もと、とうとう10年、続いた。
 何かを訴えたい女たちが、同じ思いの女たちとの出会いを待っていたのだ。

 リブは、女であることの生きがたさに怒る女たちから生まれた。1971年8月、信州での「リブ合宿」。新聞の小さなベタ記事を見て、遠くから一人でやってきた女たちもたくさんいた。女性解放を求めて、女たちが大きく変わりつつある時代だった。

 私もまた1977年、自らすすんで義母の介護に東京から京都に帰ってきたものの、身動きがとれない主婦的状況に、わりきれない思いから、冬のある日、雪の中を自転車で、「シャンバラ」というリブの女たちのスペースを訪ねたことがある。地下室の小さな部屋で出会った女たちは、厳しくもあり、やさしくもあった。後に『資料 日本ウーマンリブ史ⅠⅡⅢ』(松香堂書店)を編んだ1人、三木草子さんは、とりわけ、まぶしく、輝いて見えた。

  「女のフェスティバル」は、そんな女たちが、自分を主張し、表現しあう、互いに出会う場となった。

 「アジアの女たちと手をつなぐ」(アジアの女たちの会)、「もっと知ろうよ 女のからだ」(日本女性学研究会)、「原発・命あるものとして「知らない」とは、もう言えない-チェルノブイリその後」(京都エスペラント会)、「戦争・天皇・女-昭和・平成を斬る」(戦争への道を許さない京都・女の集い)、「セクシュアリティは選べるか?」(関西ヤンチャ・レズビアン・パワーと大阪ゲイ・コミュニティ)、「フェミニズムは政治と出会えるか」(婦人民主クラブ京都協議会)、「世界が見ている日本の女の働き方・働かせ方」(おんな労働組合・関西)など、テーマも、時代とともに変わっていった。

 すべてのグループが参加できるようにと同時進行のワークショップ形式を編み出したのも、この会がハシリではなかったか。さまざまな企画や展示、表現活動、バザーが1日中、繰り広げられた。

 準備会は年末に1回。松香堂の2階の畳の部屋でワイワイガヤガヤ。床が落ちるのでは、と本気で心配したものだった。「メイン・シンポはどこがやる?」「スペースの割り振りは?」。すべて自主管理。経費は会費500円のみ。補助は一切なし。それでもわずかな余剰金からメイン・シンポに補助金を出し、東京強姦救援センターに寄付したこともある。このころ、女たちの運動は西高東低だった。

 リブとフェミニズムと女性学は、このころ、交じりあっていた。やがて女の運動は実践から理論を生み出し、社会を変える力となっていった。まだ無名だった女たちが、そこから旅立ち、今、活躍中の女性たちも数えきれない。

 今年7月9日、上野千鶴子さんの最終講義「生き延びるための思想」に参加した。そう、フェミニズムこそ、女たちが生き延びるための思想なのだ。そして上野さんから送られた2冊、加藤哲夫著『市民のネットワーキング』『市民のマネジメント』(仙台文庫)を、新幹線の車中で読み終えた。市民グループの立ち上げと運営、発展のプロセスが、わかりやすい加藤語録で書かれていた。

 「ネットワーク」と「マネジメント」は、どちらが欠けても運動は前に進まない。「女たちは、そんなこと、ずっと前からやってきたわよね」と、中西豊子さん。

 女たちのネットワーキングをネット上でやろうと立ち上げたのが、WANなのだ。3年目。アクセス数も格段に増えてきた。マネジメントもしっかりと。リニューアルを重ね、これからもWANのサイトは、もっともっと面白くなりますよ。乞う、ご期待。

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カテゴリー:旅は道草

タグ:フェミニズム / 女性学 / 上野千鶴子 / ウーマンリブ / やぎみね