ロウ原紙に鉄筆で文字を書いて、複写機ローラーで印刷する「ガリ版印刷」(近年は、ぬくもりのあるアートな印刷技法と注目する向きもあるらしい)。コピー機や印刷機が身近で簡便なものとして普及するまで、様々な場で活躍していた。1958年生まれの私は小学6年生の時、新聞部で学校新聞を作っていた。放課後の職員室の片隅を借りてガリ版に向かっていた記憶がある。

「働く・闘う・恋・らくがき―近江絹糸紡績労働組合彦根支部職場新聞集1956-1958」に翻刻が収められている職場新聞も、表紙や章の扉にデザインされた原本のわら半紙の味わいからもガリ版印刷でつくられたものとわかる。当時、近江絹糸紡績で働いていた工員のほとんどは中学校卒業後15歳で就職して故郷を離れ、寄宿舎で集団生活を送っていたという。1957年上期の工員の平均勤続年数は男4年7カ月、女4年で、平均年齢は男21.9歳、女19.8歳(全社)。彦根工場の56年11月時点の深夜専業労働者を除く現場労働者数は約2千人で、男女比は男2:女8だったという。

私が生まれる4年前、1954(昭和29)年に近江絹糸労働組合が基本的人権の確立と労働条件改善を掲げて闘った近江絹糸人権争議は組合側が歴史的な勝利を収めたという。争議そのものに関しては多くの書籍や研究資料があり、三島由紀夫は割腹自殺の6年前に経営者像に焦点を当てた小説「絹と明察」(1964年、講談社、現在は新潮文庫で読める)を著わしている。 争議終了の翌55年6月、組合は結成1周年記念文集の出版を計画したが、原稿が集まらなかったそうだ。そこで各支部の代表者たちが話し合い、「整った作文」ではなく、日記や「なんでも思っていることをかく落書、よせがき」を含む原稿を広く募ること、共同編集のための編集委員会を作ることを決定。その後の編集委員会で、記念出版の目的は「文集を作る」ことから、「みんなで書く運動―らくがき運動」の推進へと大きく転換したという。
各支部に任された原稿集めの方法がユニークだ。
壁新聞や投書箱、職場・寮・トイレに置かれた落書帳ノートに原則無記名で書く。会社に対する意見だけでなく、組合や労働者相互の不満・意見や恋愛の悩みまで、様々な「らくがき」が集まったという。これらの中には、争議前には便所のラクガキとして書かれていた類のものも含まれていたという当時の労働者の回顧談もある。
各職場から出されたらくがきが編集され、56年5月、「らくがき」として、近江絹糸紡績労働組合から出版された(その後、三一書房からも一般出版物として出版され、様々な労働組合から注目を浴びたそうだ)。

本の出版後、各職場で大量に出てきた表現物のうち掲載し切れなかったものを「職場文集」として発表していこうという試みが出てきた。その中で、らくがき運動を労働運動の戦略として明確に位置づけることを意図し、職場新聞の準備・発行を仕掛けていったのが当時、彦根支部教文部長だった辻󠄀保治(1935-1998)だ。

大阪・北浜の地で、大阪産業労働資料館(通称「エル・ライブラリー」)を運営する公益財団法人大阪社会運動協会は、辻氏の遺族から寄贈された資料を所蔵している。資料についてはすでに目録、論文、オーラルヒストリーなどが出版されているが、2026年1月、下久保恵子(エル・ライブラリー特別研究員)が編者となって、彦根支部で1956~58年に発行された職場新聞6紙を完全翻刻して解説を付けて発行されたのが、本書だ。 かつて伊丹市立図書館員だった下久保さんは辻氏とは友人で、生前に資料整理を手伝うことを約束していたそうだ。2010年からその膨大な資料に向き合い始め、前述の目録などを作成、今回、その一つが職場新聞集として出版された。B5版で約400ページの本書は、厚さ2センチを超え、ソフトカバーながらズシリと重い。

当時の絹糸紡績の工程は、①晒練(せいれん)②製綿③排綿④前紡⑤精紡⑥仕上(合撚糸、瓦斯、検操、仕上)、綿・スフ紡績の工程は、⑦混打綿⑧梳綿⑨練粗⑩精紡⑪仕上で、それぞれの工程ごとに職場が分かれていた。「女工哀史」(1925年、細井和喜蔵)や「あゝ野麦峠」(1968年、山本茂実)で描かれた戦前の製糸工場の様子よりは機械化が進んでいたようだが、苛酷な労働であることに変わりはなかった。
①の職場新聞はその名もずばり「晒練職場新聞」。②と③は連続する工程の職場で新聞名は「蛹粉(さなぎこ)の中で」。⑥のうち、糸の毛羽立っている部分を焼いてつやを出すガス焼職場は「ほのお」。⑦の混打綿の職場新聞は、担当する職場の最終製品の形「ラップ」の名が付けられた。シート状にした繊維を円筒状に巻き上げたものだ。粗糸を紡ぎ、撚りながら所定の強度・太さの糸をつくる⑩の職場新聞は「ぼこぼこ」。精紡機に糸が絡んで糸切れした状態の呼び名だ。⑪は最も人数の多い職場で「じんし」。原料の多くを人造繊維であるステープルファイバー(スフ)が占めることから綿・スフボウセキの工程は「人繊」と呼ばれたという。「じんし」は「人繊・仕上」を縮めたものだろう。

拾い読みをしていて、それぞれの工程で悩まされる問題が多種多様なことに驚く。人手不足で余裕のない職場の状況や薄給を嘆く声はもちろんだが、動物である蚕の繭を原料とするための独特な匂い、職場に舞う蛹粉やホコリ、異常な暑さなど、アレルギー症状が出たり、病気になる人はいなかったのだろうか(きっといただろう)と心配になる。
故郷を離れて働く若い男女の恋愛へのあこがれや望郷の思い、家族を思う気持ち。雑多に交錯する生の声には、日々働く自分を見つめた人たちの切実な思いが宿っている。(大田季子)

編者・下久保恵子さんによるWANの記事はコチラ https://wan.or.jp/article/show/12341