おっかけの始まり
きっかけは、越後妻有の「大地の芸術祭」だった。もう20 年も続く芸術祭だそうで、3 年ごとにアートトリエンナーレを行う地域活性化のイベントとして始まったという。3 年ほど前、たまたま新潟に行く用事があり、ほとんど何の予備知識もないまま、その帰りに立ち寄ってみたのだった。その時は通常時だったので、特に大きな催し物はなく、広大な里山のあちこちに芸術作品が展示されているだけだった。それ自体、なかなか面白く見たのだが、訪ね歩いているうちに、その中の一つの作品に心惹かれた。一軒の家の内部全体に蜘蛛の巣のように張り巡らされた黒い糸。糸の後ろ側には、いくつかの生活用品。作者によれば、それらは、地元の人たちから集めた「要らないけれども捨てられないもの」だそうで、家具、衣類、書籍などがばらばらに置かれていた。

そして、これこそ空き家に染みこんだ記憶を紡いでいるものだという説明。なんて面白いんだ!と感激して、家の前の立て札を見たら、「家の記憶」とあり、作者は塩田千春(日本/ドイツ)と書いてあった。ドイツ?!これはもしかしたら、どこかに何かのつながりがあるかもしれないな。
そう思って、ドイツに戻ってきて、うちの公文の教室助手で、本業アーティストにその作品を見て大変印象に残ったという話をしたら、なんと驚いたことに、彼は塩田千春と同じ日本の大学の後輩でもあり、彼女を個人的にもよく知っているのだという。さらに、数年前、デュッセルドルフ近くで彼女の展覧会があった時、お手伝いもしたのだそうだ。これはびっくり、世の中狭い!
そして、彼からその時の展覧会カタログを借りてきてじっくり家で見た。これがまた、彼女のファンタジー世界を映し出していて、ものすごく面白い!
ああ、一度本物を見てみたいものだと思っていたある日、ケルン日本文化会館から来た催し物案内に、塩田千春の名前の講演会があるのを見つけた。これは絶対に行かねばならぬ!もちろん、うちの助手にもその講演会について知らせた。
それは2 月の雪混じりの天気の日だった。運転にあまり自信のない私は、自分を励ましながら、アウトバーンを飛ばして70km の道のりをケルンまで出かけた。だが、決死の覚悟で行った甲斐があったと思った。実に興味深い講演だったのである。彼女は、自分の作品群のスライドを見せながら、日常の中にある記憶の痕跡、生と死、不在と存在など、糸に紡がれた作品の中に垣間見える瞬間について彼女の思いを語った。

さまざまなきっかけで、人は自分の人生の中で、これらに対する問いに出会う。これっていったいなんだろう。私たちに分かるようでいて、その答えの見つからないもどかしさ。けれど、私たちは時とともにその答えのない問いを心の中に封印し、また日常を生きていく。塩田千春は、その問いかけを私たちに放っておかせない。目に見える形で私たちの前に取り出し、ぐいぐい迫る。彼女の作品の後ろには、その記憶を共有しながら、また歴史の闇の中に消えていく人々への温かい共感と連帯がこめられている。講演会の後、参加していたうちの助手とともに、個人的にお話する機会もあり、大満足でまた恐怖のアウトバーンを70 ㎞運転して帰宅した。
トリノの展覧会
おっかけはケルンだけでおしまいにしなかった。彼女のサイトで、日本でも開かれたのと同じ展覧会がトリノで開催されることが分かった。これは絶対に観に行かねば!ちょうど春休みをはさんでの期間だったこともあり、私はトリノに出かけて行った。これまたうかつにもイタリアということだけは知っていたのだが、それ以外ほとんどなんの知識もなかった。飛行機でアルプスを越えてたどり着いたトリノは、そこで初めて分かったのだが、山に囲まれた美しい町だった。
開催地はそこの東洋美術館。これが塩田作品にぴったりの場所だった。入口前には、統一後のベルリンの工事現場で集めたという窓をいくつも掲げた作品。そこを入ると、赤い糸が張り巡らされた空間、黒い糸の部屋には壊れたピアノ。

何よりも面白いのは、この東洋美術館の常設展示とおぼしき仏像など、普通に想像できる東洋美術作品がところどころに混じって置かれていることだ。塩田作品とて東洋美術のカテゴリーなのだが、そのミスマッチが笑いを誘う。思いきり挑発的なのは、仏像群の中に、赤い糸をまとうマネキンがさりげなく配置されている部屋だった。

かばんを吊り下げて上下に移動するオブジェ、ミニチュアの家具などをバラまいた平面、どれを見ても発想が面白い。その原点ともいえる、塩田千春が5 歳のときに描いた絵も展示されていたが、日本の小学生の夏休みの宿題のようなひまわりと蝶の絵だった。その絵からいくたびかの年月を経て、ここまでたどりついたのだということを知ることもできて、その道筋に大いに敬意を抱いた。それはしかし、決して楽な道ではなかっただろう。
ベルリン 芸術家としての自由
ゲーテ・インスティトゥート東京で、塩田千春の「私自身であればいいという自由」というタイトルの動画がアップされている。そこで、1997 年からベルリンに住んでいる塩田がその場所について語っている。来たばかりのころは、ドイツ統一後まもない時期で、ベルリンはあちこちで工事が行われており、実に混沌とした様子だったという。ただ、アーティストやキュレーターがたくさん住んでいる、何をしても許される自由な雰囲気だった。日本では現代アートの世界は圧倒的に男性優位な社会で、ある種のコンプレックスを感じていたが、ベルリンに来て塩田はそれから解放されたという。まさにこの動画のタイトルである自分自身の自由を獲得したのだと語っていた。
塩田は、アーティストが自由に表現できて、それが正当に評価される社会が今のベルリンにあると言うが、果たして昔からそうだったのだろうか。筆者の友人で、学生運動華やかなりし1968年ごろベルリンの美大の学生だったErika に話を聴いた。ギムナジウム卒業までデュッセルドルフで過ごしていた彼女は、ベルリンに行ってその自由で生き生きとした雰囲気に圧倒され、何もかもが目新しかったと言う。
ただし、彼女が証言したように、いわゆる68 年世代の前までは、そこにいるアーティストたちはもちろん、美術大学の学生たちも、その多くが男性だった。そこへフェミニズムの波が押し寄せ、芸術を学ぶ女子学生の数も増えていく。ちなみに、2025 年夏学期現在のベルリン芸術大学(UdK Berlin)では、女性56,8%、男性39,5%、その他3,7%である。また、女性の教授や講師も以前はほとんどいなかったのが、現在では、女性36%であり、全体の傾向と比べてもかなり高い方である。
日本の美大の場合と比べてみると、興味深い。日本の主要な美大の女子学生比率は73,5%、つまり、圧倒的に女子学生が多いにもかかわらず、教授陣では19,2%が女性と逆転する。この不平等な問題に対して、ようやく是正の動きが上がってきているが、ドイツのように、法的強制力をもつクオーター制などはなく、まだしばらくはこの状態が続くことと思われる。
「女性アーティストたち! モンジェからミュンターへ」
だがしかし、68 年を契機として、ベルリンで女性アーティストたちが男性と対等に扱われ、自由な表現が見られるようになったドイツでも、その昔は女性たちにとってはイバラの道だった。2025年秋から2026 年春まで4 か月以上にわたってデュッセルドルフのアートパレス美術館で開催された「女性アーティストたち!」展がそれを物語る。タイトルに感嘆符がついているのが、暗示的だ。大きな自意識の表出であり、不平等に抗す女性たちの抗議を代弁するものでもあり、彼女たちに連帯を示す印であるともいえる。期間中、あまりに面白かったので、私は2 度この展示会を訪ねた。いったいどんな意図をもって、開催されたのか。
そもそも女性たちは芸術の場から、長い間ずっと排除され続けていた。実は、デュッセルドルフは、ベルリン、ドレスデンなどと並ぶドイツの美術市場の拠点である。特にデュッセルドルフの芸術アカデミーは芸術を学ぶ者にとって、最高峰の教育の場であった。しかし、女性たちが入学を許可されたのはようやく1921 年のこと、男女平等を定めた1919 年のワイマール憲法がそれを可能とした。

それまで、女性芸術家たちは当時世界的に有名だったデュッセルドルフという「芸術の町」に集まり続けていた。著名な男性画家から個人レッスンを受けていたほか、独自に立ち上げた私塾で学び、アトリエを共有し、経済的・精神的に支え合っていたのだという。まさにシスターフッドの世界である。彼女たちは、そのネットワークを活用し、それぞれがプロとして活動していた。ただし、その業績が大きく取り上げられることはなかった。
この歴史を掘り起こすべく、2021 年からこの展覧会のための大規模調査が行われた結果、1819年から1919 年までの100 年間そこに連なっていた女性アーティストたちが特定された。それまで約200 人と推定されていたのが、全部で500 人にものぼるという新たな事実が判明した。

中には、国際展に出品したり、賞や奨学金を受けたり、重要なコレクションに作品が収蔵されたりした女性もいるにはいた。しかし、彼女たちもまた、今日ではほとんど知られておらず、美術史に名を連ねてはいない。つまり、そのほとんどはまったく無名のまま、歴史から姿を消したのだ。
その埋もれた女性たちに光を当てた学芸員たちの地道な活動に、つくづく頭が下がる。この展覧会では、そのうち31 名を取り上げ、彼女たちの作品を展示していた。一般に名前が知られているのは、タイトルにも採用されているカンディンンスキーのパートナーだったガブリエレ・ミュンターくらいだろう。なにしろ今まで一度も公的な場に展示されたことのない作品がほとんどだということにも、それらの作品の質の高さにも驚かされる。
女性芸術家たちがどんなに差別を受けていたか、しかし、その不利な条件のもとでどんなに彼女たちが創造性を発揮し、その存在の承認を求めて闘っていたことか、ガイドさんの説明を興味深く聴いた。たとえば、女性に許されていたのは、ポートレートと静物画のみ、のちに風景画も加わったが、歴史を再現するテーマは描いてはいけなかったのだとか。あるいは、パリの印象派以前に印象派的なタッチで描いた作品は軽く無視されたのだとか。一方で、女性の自意識の眼差しが人物に投影され、それが見る人を射る作品の持つ厳しさも。私が痛みを感じたのは、男性しかいない美術展の様子を女性が描いた作品だった。これを作品に仕上げたとき、この女性アーティストはどんな気持ちだったろう。もしかして、逆にある種の皮肉としてこの作品を描いたのかもしれない。

女性の姿がまったくない男たちだけの美術展を女性が描いた作品
歴史の場に生きる意味
この女性アーティストたちが、連帯して、不公平な社会に抗していったことを心から尊く思う。そして、100 年の後、今までまったく見えなかったこの女性アーティストたちの存在を明らかにして、美術における男女差別がどんなに間違っていたことか、はっきり私たちに突き付けた美術館の学芸員たちの活動にも頭が下がる。それぞれの歴史の場で、それぞれの人たちが自分の最善を尽くして生きているのである。その意味がすぐに明らかにならずとも、100 年の後に答えの出ることもあろう。このような女性たちの活動に、ドイツに表現の場を求めてやってきた日本人女性アーティストも支えられている。
塩田千春のテーマである不在の中の存在。歴史の闇に消えていったその人たちの生きた意味が、さまざまに連なり、社会をよりよき方向へと変えていく。芸術にはその人間の地味な営みを可視化する力があるのだし、そこからメッセージを受け取る私達もまた、歴史の中で自ら生きる意味を今作りつつあるのだと、歴史にまたがる二つの展覧会を見てきた私はつくづくと思いいたるのである。
(初出:「ドイツに暮らす㉔」、『言論空間』、現代の理論・社会フォーラム、2026 年夏号。許可を得て転載。









