2014.05.30 Fri
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.女性同士なら共感できるとか、連帯できるというほど単純なことではない。それはみんな知っていることだ。しかしその一方で、女性の敵は女性、というような、女同士に競わせて結局世の中を何も変わらせない(働く女性VS専業主婦だ、子どものいない女VS子持ち女だ、正規雇用者VS非正規雇用者だ、子育て世代VSおばあちゃん世代だなどなど)ということは社会的な構造から起きていて、おんなは「分断されている」と感じることも多々ある。自分の利益に反するようなことをいう女、共感できない女、はもちろんお互いに多々いるが、一人一人が敵かというとそうではなく、そうさせられてきた背景をお互いに探り合うことからしか、対話は始まらないと思う。その意味では、本書の前半は何人か出てきた「みのり」が歩み寄れないと感じた少女たち、女性たちのことが、さみしく、気になりながらの読書だった。北原さんが雑踏の中で見かけても彼女と気づくことができないかもしれない、と示唆した、美少女だったユウコちゃん。彼女が「おんなってだめね」とため息をついたその心中を、いや、つかされた美少女なりの背景を、おとなになった北原さんには、書くこともできたのではないかと思うからだ。
しかし中盤、「走れメロス」のメロスを女性のメロ子に置き換えたという想像の寓話に入ると、そんなことも一瞬吹き飛んで、女たちの連帯した姿にわたしはうれし泣きしそうになってしまった。寓話なんだけれど。でも、メロ子と親友セリーヌのあり方はリアルだと感じる。それまでに描かれた歩み寄れなさを、一気に吹き飛ばす瞬間が、確かに女たちにはあるとおもいだしたから。
本書には、女友達をめぐる、口には出せなかったこと、でもずっと気になっていたこと、小さな懺悔、信じ切れていなかったことを恥じるほど女友達に救われる瞬間や、何もかも突き抜けるようなパワフルさをもつその関係、(そうはいっても大人になってもけんかしたりもするのよ、という打ち明け話と共に)などが細やかに描かれている。だからこの本は、女友達っていいよね、と聞いて顔が浮かぶ誰かのことを思うだけじゃなく、きっと今まで忘れていたり、胸の奥で小骨のようにひっかかったまま忘れようとしていた誰かとの記憶にも思いを馳せさせる本だと思う。そのとき当時はわからなかった彼女のこと、大人になった今、ちょっと想像してみることができるのではないだろうか。そうしたら雑踏の中で、忘れていたはずの彼女のことも、みつけられるかもしれない。(小林杏)