2010.09.05 Sun
唐突だが、BL好きと歴史好きはしばしば重なる。
正確に言えば、歴史をテーマにした二次創作ものは、しばしばBLに走る。古くは『三国志』や『封神演義』(封神演義は『ジャンプ』紙上で連載された漫画の影響が大きく、その漫画自体が二次創作といっていい作品だったが)から、最近なら『ヘタリア』まで枚挙にいとまがない。これはなぜか。
かく言う私自身、小学校2年生で『三国志演義』、4年生で『水滸伝』、5年生で『封神演義』の順番で中国古典文学にハマり、中学校3年間は春秋戦国時代と諸子百家を読んで過ごした。せっかくなら漢詩の素養も身につけなくてはと『唐詩選』やNHKの漢詩・漢文講座も視聴した。中学時代最後に南宋からモンゴル時代を題材にした小説(田中芳樹著、2000年『海嘯』、中央公論新社)を読んで、次はモンゴル帝国に関連する本を読まなければと思っていた。およそ8年間、本なら買ってやろうという父親に経済的に支援されつつ関連書籍(岩波文庫の『三国志演義』『水滸伝』『荀子』『老子』『荘子』『韓非子』、筑摩文庫の正史『三国志』、ほか研究書など)を買い集め、家中にそういうものを散らかして母親から顰蹙を買った。何の因果か大学では社会学専修ということになっているが、心は今でもモンゴル時代にある。本当です。
そんな私がBLに出会ったのは、中学1年生の時、我が家にパソコンとインターネットというものがやってきてからだった。Yahoo! Japanにアクセスし、試みに「三国志」と入力した私の目の前に広がったのは、めくるめくやおい(当時はBLとは言わなかった気がする)の世界だった。
さて、そこから私はせっせとやおい活動を始めた。といっても、ネット世界で知人を作り、その知人たちから頼まれるままに三国時代や春秋戦国時代を舞台にしたその手の小説やイラストを数本書いて、1年に1回か2回、彼らの発行する同人誌に載せてもらってコミケ会場で売り歩いただけだが。しかしあのときの入れ込みようは、今の研究活動に対する入れ込みようとは比べ物にならなかった。家族に隠れて活動にいそしむためウェブメールのアカウントを作り、これまた家族に見つからないよう中学校のコンピュータ室で、足がつかないよう毎回ウェブの閲覧履歴を消しつつ、書いた作品はPCではなくフロッピーとウェブ上に保存した。PC使用時間はひとり1回1時間までと決まっていたので、制限時間内に少しでもたくさん小説を書こうと努力した結果、自然とタイピングも早くなった。当時、教員からも同級生からもそこそこ受けのいい優等生だった私は、自分のやおい活動が何となく後ろ暗いことのような気がしてならず、決してこの姿を人目にさらすまいと決意した。「それっぽい」同級生たち(自分と同じ空気が感じられる生徒)には決して近づかなかった。
中学を卒業してからと言うもの、私は上記のことを個人的な「黒歴史」として固く胸に秘め、さわやかな優等生として公明正大に生きていこうと心に決めていた。それはつい最近まで一分の揺らぎもない固い信念だった。
しかし先日、大学院のゼミで指摘され、自分の一貫性に気づいた。私は現在、自分の研究方針や方法論らしきものに対して結構確信を持っているのだが、どうもそれは、私の歴史志向というかBL志向と関係しているのではないだろうか。
歴史研究において大切なことは何か。さまざまな回答があり得るだろうが、過去の出来事を尊重すること、過去が自分たちの生きる現在からはっきりと独立した世界を持っていることを絶えず意識しつつ、その世界に対して「事実」と呼ぶべきものを確立していくことは、歴史学が常に重視してきたことである。私は、歴史学の築いてきたこのような態度と、それを維持するための手続き(例えば文献実証主義)に心から敬意を払い、社会学の研究においてもそのような方針はある程度生かせると確信している。
これがBLとどう結びつくのか。BLに限らず二次創作において大切なのは「原典への尊重」である。どんなすばらしいBL的想像力も、原作の小説や歴史書の一文、漫画のひとコマなしには生まれない。原作を逸脱することなく、その隙間にオリジナルな想像(妄想)力を膨らませること、自分の嗜好と原典とをすり合わせていく努力の楽しさこそ、私をBLに引き込んだ魅力ではなかったか(注1)。例えば、二次創作イラストの上手下手とは、どれほど原作を真似ることが出来るかで決まる。どんなに独立した作品として素晴らしい小説が書けようとも、登場人物が原作と異なった性格だったり原作でありえない状況を描いてしまったりした場合、その作品は失敗作になる。原作に忠実でないからだ。好き放題に出来ることが自由な創作活動を生むと思ったら大間違いである。原作という「縛り」があるから想像力が羽ばたくのだ(注2)。そして、原典を尊重するというルールに則った上で技術を向上させるべくトレーニングを積んだ作品は、ルールに則らない、あるいはルールを知らない作品よりも優れている。これは、二次創作活動をした事のある人の多くが納得してくださる原理ではないか。
だから私は、二次創作を愛する者は古典を愛し、過去を愛する者だと思う。実際にそうでなくても、そうなり得る素質を持っている。自分の小ささ――想像力においても、能力においても――を知り、自分以外のものを尊重することを知らなければ、良い二次創作活動をすることは出来ない。
だからきっと近々、表層的な「構築主義」だの適当な物語論だのが一掃されて実証史学の巻き返しが来るんじゃないかと信じたい。BLがこれだけお天道様の下を歩けるようになったのだから。
注1:魯迅はこのような創作活動を激しく批判したが(魯迅『故事新編』まえがき)、にもかかわらず彼の『故事新編』は中国古典に対する最良の二次創作のひとつだと思う。
注2:原典への尊重が不幸を生むときもある。例えば私がBLから足を洗った原因のひとつに「中国史の登場人物って、本当は汗と埃にまみれたオッサンとか、冠かぶってヒゲ長髪のオッサンとかばっかりだよな」と気づいたことがある。それまでそのことは無視してきたが、時代考証にこだわった結果、事実を受け入れざるを得ないと結論した。想像力に対して原典が重すぎた悲劇的な事例であろう。
(ぱくさら・京都大学大学院・社会学専修)