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周囲の批判に鈍感になること 秋月ななみ
2013.07.16 Tue
発達障害かもしれない子どもと育つということ。9
発達障害の子どもをもつということは、ある意味では子どもの置かれている状況や発達に敏感に、そしてある意味ではものすごく鈍感でいるということが必要とされるような気がする。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 発達障害の子どもを持つお母さんも、人が多様であるように、本当にいろいろだ。例えば前回に紹介した『娘が発達障害と診断されて… 母親やめてもいいですか』の山口かこさんは、子どもの小さな変化に思い悩んで、自分でインターネットで検索して、ほぼ確信をもって診断を受けに行っている。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.しかし例えば『うちの子かわいいっ親ばか日記―自閉症児あやの育児まんが』のあべあやさんは、本当に羨ましいぐらい肝が据わっている。遅れている子どもの発達に微塵も悩むことなく、母親から自閉症を指摘されても、「子供なんて個人差があってトーゼン。専門家⁉ なんじゃそりゃ?」と全く動じないし、「かなり深刻に幼いですね。家庭でどうこうできるレベルではありません」と実際にいわれても、「変なおばさんだったわ」と「なんでそんなこと言うの⁉」というような感じ。これだけを書くと、たんに子どもの発達に無関心なお母さんに見えるかもしれないが、そうではない。障害と診断されてからも、とにかく目の前にいる子ども第一で、「かわいい、かわいいっ」と「親ばか日記」という名に恥じない親ばかっぷりである。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.かなしろにゃんこさんの『漫画家ママのうちの子はADHD』では、落ち着きがなくて、学校でも忘れ物ばかりでしょっちゅうトラブルを起こす子どもとそれに思い悩むお母さんの姿が描かれている。子どもさんが小学校のときに、さりげなく療育に誘導され、最終的に診断がつく。そして保育園のときにこっそりと子どもの遊ぶ姿を観察するように誘導されたことなどを思い出して、「周囲は自分に気づかせようとしていたのだ」ということに、初めて思い至る。悩んではいるものの、あまり頭でっかちではない、普通の感覚を忘れないタイプのお母さんである。
さて私は、相当に頭でっかちで思い悩み系である。山口さんの「とりあえず発達障害の知識を漁ることで不安を紛らわす私――」「気がつけば私は『療育ママ』というより『発達障害ヲタク』になっていた…」というシーンで思わず噴き出した。同じである。
発達障害の子どもを抱える辛さは、いくつかある。ひとつは、子どもの将来を考えると、本当に不安になることだ。しかしこれは考えても仕方のない、子どもの人生であるのだから、今から思い悩む必要はないと思うことにした。いま現在、やらなければならないことをやるだけである。
もうひとつは、周囲の目である。「あの親は何をしているのかしら」という目で見られることは、思いのほかきつい。正直に言えば以前は、発達障害の子どもを抱える幾人かのお母さんの周囲への無頓着な感じに、違和感を抱いていたのも事実である。周囲に迷惑(いまから思えば大した事でも、社会的なルールにそう反することでもない)をかけているのに、周囲に謝ったり取り繕ったりせず、まずのんびりと子どもの気持ちを尊重し続けるお母さんに、「いくら障害といっても、もう少し周囲に気を配ってもいいんじゃないか」と批判めいた気持ちを持ったこともある。
でもいまはおそらく、子どもにとってはとてもいいお母さんなのだろうなということは、しみじみと分かる(奇しくもどのお母さんも自身も、明らかにアスペルガー症候群っぽい風味を持っているか、自覚をしている人であった。親子で障害を持っていると大変だとも言われるが、確かによい側面もあるのだと思う)。
うちの子どもは、お友達の親子と外出すると、「ママはあっちに行って」「こっちに来ないで」と言い募り、友達のお母さんを独占して癇癪を起こすことがある。それは、娘の落ち着きのなさを周囲の目を気にして、強く叱りつけた後に起こることが多い。娘は自分を怒る理由が、自分のためを思って言っているのか、他人の目を気にしているのかには、驚くほど敏感なのだ。そして友達は「私のママを取らないで」と不機嫌になり、娘に「こちらにおいで」といっても「やめて!」といわれ、私はまるで日頃から虐待でもしているかのような疑惑の眼差しを向けられて、居たたまれない思いがする。
告白してしまえば一度、家に帰ってから泣き崩れたことがある。娘のためにこれほどの時間とお金を使い、悩み、自分の仕事も完全にセーブして、くたくたに疲れ果てているというのに、何と報われないのだろう。今まで払ってきた労力を考えると、眩暈がするほどだ。その結果が、「ママ嫌い」「あっちに行け」なのか――。
「もういい。もうあっちゃんは、あのうちの子になったらいいじゃない! ママはもう疲れた。もうじゅうぶんだ。もう本当に疲れた。嫌になった」と泣く私に、娘も「ママ大好き。大好き。好きだからよそのうちの子にしないで!」と泣き喚いた。続いて出て言葉に自分でも驚いた。「私だって、私だって、『普通の子』が欲しかった!」。言ってみてからはっとして娘をみたが、泣き喚いていて聞いていないようだった。ホッとした。自分の心の奥底では、いまの娘ではなくて、「普通の子」だったらいいのになぁと思っていたのかということに初めて気づかされた。
驚いたが、きっとそれは奥底に潜んでいる偽らざる本音の一部でもあるのだろう。自分に嘘をついても仕方がない。でもつねにそう思っているわけではない。また「普通の子」がなにかもわからないし、そうであったらいまの娘ではないこともわかっている。ただ目の前の娘を否定する言葉を吐くことがこれほどまでの後悔をもたらすのなら(聞いていなかったとしても)、二度とそういうことはすまい、と誓った。
気持ちを立て直すと、娘はとっくに泣き止んでいた。そしてじっとこっちを見ながら、「お腹すいてるんだけど。早くご飯作ってよ」という。駆け寄るでもなく、謝るでもなく、いきなり「飯炊き係」の便利屋扱いか、と思ったが、娘らしくて笑ってしまった。
友達のママへのすり寄りは、その後、私なりに解釈するとこうだ。普通は自分のお友達は同年代であり、ママはその付き添いだということを理解している。しかし娘にはそれがわからない。友達もお母さんも同じ「友達」扱い。そうなったときに、同じようにまだ子どもっぽく、譲れない同年代のお友達より、大人で配慮してくれるお母さんのほうが好きなのは当たり前だ。そしてそれを止めようとする私は、「友達」と遊ぶのをやめさせようとする邪魔な存在になる。「もっと友達と遊ばせてよ」ということなのだと。
それからは、「『友達』は普通は同じ年の子どもだよ。そしてお母さんは付き添いなんだよ」と言い聞かせる一方で、娘が他の子のお母さんに懐いたときは、「ママを取っちゃって、ごめんね」とよその子どものケアに専念することにした。友達とは関係なく大人に懐くこともあるが、そのときには娘の邪魔をせず、相手からの苦情がない限り丸投げである。周囲からは子どもを放ったらかす駄目な親と思われているだろうなぁと思うし、申し訳ないと思うけれど、娘の信頼できる人を見分ける嗅覚は動物的だ。選ばれるということは、いい人なのだ、娘に好意を持ってくれていると決めつけることにした。すみません。そのうち「友達」という概念を学んでくれる日が来るといいなと思う。
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シリーズ「発達障害かもしれない子どもと育つということ。」は、毎月15日にアップ予定です。
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