原発ゼロの道

views

4696

大間原発に反対し続けた熊谷あさ子さんを偲ぶ 野村保子

2014.05.10 Sat

 1976年大間町商工会は大間町議会に「原子力発電に係わる環境調査」の実施を請願し、同年町議会は請願を採択し、大間原子力発電所の建設の動きは一挙に表に出た。住民たちは驚き漁師を中心に反原発運動が活発になった。原発には海からの冷却水が必要なため原発建設には漁業協同組合の承認が不可欠である。大間町もまた最初に狙われたのは漁業協同組合である。漁民に対しての容赦ない切り崩しが町を二分する激しさで行われた。1994年大間・奥戸両漁業協同組合は「発電所計画同意および漁業補償金受け入れ」を決定。200人を超えると言われた反対派の漁師たちはものを言わなくなり数人の反対する者が残された。その一人が熊谷あさ子さんである。

 大間原発建設敷地はそのほとんどが戦後の農地解放で住民に所有権が移った土地である。祖父から土地を引き継いだ熊谷さんは「土地と海があればどんなことがあっても生きていける」と土地を手放すことを拒んだ。初めの計画では熊谷さんの土地は原子炉から100メートルの場所にあったが買収に応じないため1999年一部未買収のまま建設許可を申請した。2004年、買収をあきらめた電源開発は原子炉位置を200メートル移動して設置許可を再提出した。この5年の停滞は後に大きな出来事となって今につながる。2007年柏崎刈羽原発の地震による火災事故、2011年福島原発事故と続き、現在大間原発建設工事が進捗率37%に留まっている所以である。

 熊谷あさ子さんは最初の頃、名前を出さないでいたため函館の反原発のグループである私たちと交流はなかった。しかし原発敷地内の道路の共有地裁判を組織と離れ一人で闘うことを決めた時から表に出た。初めて私たちと話した時の熊谷さんの饒舌な言葉を思い出す。堰を切ったように電源開発のやり方や海と土地を守る自分の生き方を説いた。自分で耕した土地に「あさこはうす」を建て、多くの人たちが集まって大間原発に反対してほしいと語った。2006年不慮の事故で亡くなられ、今「あさこはうす」に全国からの反原発の人々が集う。あの頃大間町で一人闘う熊谷さんは脅迫、暴言、村八分と激しい攻撃にあっていた。なぜ同じく反対しながら組織にいる男たちは守られ一人の女は守られなかったのか疑問だった。保守的な町で誰ともつながらず反対を貫く姿勢は反対から転じた者たちには眩しかったのではないか。しがらみから意に染まない原発を受け入れた人には、女性一人で反原発を貫く熊谷さんが目障りな存在になっていたのではないか。「あさ子が反対するから学校が建たない」などという脅迫の手紙や危険な脅しのハガキも届いた。執拗とも言える脅しやストーカー行為にあいながらも説を曲げなかった熊谷さん。数々の迫害に負けず反対を続けてくれて今がある。女の暦2007年姉妹たちよの8月に熊谷あさ子さんが掲載されている。《女が女であることを高らかに謳いながら、道を拓いてくれた女たちへ、愛と感謝をこめて。女が連なって生き、作ってきた歴史のシッポにわたしたち今生きている女達がいる》この言葉を熊谷さんに捧げたい。

 大間町は青森県の県庁所在地から遠く離れ、フェリーで1時間半の函館が一番近い都市である。空路函館に降りフェリーで大間町に向かう人も多い。1994年函館の市民グループが「ストップ大間原発道南の会」を立ち上げた。2010年国と電源開発に大間原発建設差止め裁判を起こした「大間原発訴訟の会」の前身である。2014年4月には函館市が大間原発建設差止め訴訟を提訴した。全国の地方自治体で原発ノーの裁判は初めてである。原発から30キロ圏内にありながら何の説明もなしに危険だけを押し付けるのは理不尽である。50キロ圏内に35万人が住む道南では事故が起きれば避難は出来ず市民を守れないと裁判を起こした。福島原発事故から3年が経ち未だ避難生活が続く人たちの苦渋の思いとは裏腹にこのクニは原発再稼動、新規原発建設に進もうとしている。このクニを捨てたくなるとき熊谷さんの言葉を思い出す。「何があっても海と土地があれば生きていける」。そう生きるためにこれからも大間原発に反対し続ける。もうすぐ5月19日、熊谷さんの8回目の命日が来る。

あさこはうす

カテゴリー:脱原発に向けた動き

タグ:脱原発 / 原発 / 野村保子 / 熊谷あさ子