2010.04.08 Thu
女性史学賞の講演会レポートの第三回目は、コメンテーターの方々(上野千鶴子さん、兵藤裕己さん、クリスティーナ・ラフィンさん)の講演の概要について、ご紹介します。
なお、上野さんは『恋する物語のホモセクシュアリティ』の帯に、次のような推薦文を寄せられています。
「宮廷物語では、だれとだれがどんなセックスをするかは、重大事。それは色恋ではなく権力の物語だからだ。『こんな読み方もできるのか』とぞくぞくする。」
窶披博vわず手にとって読みたくなってしまう帯ですね。
ちなみに『乳房はだれのものか』の帯には「お父ちゃんのものではありません!縲恃Oのため」と大書してあります(笑)
この帯は、新曜社の編集の渦岡謙一さんのアイデアなのだそうですが、講演会の場にいらっしゃっていた渦岡さんは、とても落ち着いた雰囲気の、真面目そうな方でした。
・・・いろんなギャップに驚かされます。
刺激的なのは、帯だけではありません。
ぜひWANの読者の皆さまも、木村さんの御著書を直接手にとって、最先端のジェンダー研究の迫力を、実感してください。
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[b][size=large]上野千鶴子さんのお話[/size][/b](概要)
○木村さんの研究の位置づけについて
木村さんは(構造主義のパラダイムを源氏物語研究に持ち込んだ)藤井貞和氏門下の俊秀。
『源氏物語』の色恋を権力の物語として読み替えた前史としては、駒尺喜美氏、清水好子氏、富岡多恵子氏の研究が挙げられる。
脇田晴子氏、田中貴子氏の中世説話研究も前史として重要。
○木村さんの研究のオリジナリティについて
性と婚姻と階級の物語に再生産という視点を入れたこと。
その再生産を、さらに細分化して〈生むべき性/生まない性/生まないことにされる性〉ということを細かく分けていった。
乳母の性、召人の性に対して着目したことの素晴らしさ。
「こうやって、ジェンダー、セクシュアリティ論を積み重ねていきますと、なんと驚くべき事に〈生まない性〉〈生まないことにされる性〉という点においては、女色も男色も機能的に等価だということを、木村さんは喝破してしまった。」
「制度の中の性が、同時に身体という制度の外の性(偶発性、蓋然性)によって翻弄されるということも含めて、物語が重層的な構造をもっているということを、非常にビビッドに描き出した。」
「ジェンダー研究が積みあげてきた『セックス』・『ジェンダー』・『セクシュアリティ』という三つのカテゴリーを実に上手く、自家薬籠中のものとして使いこなしておられる。さらにこれに『階級』を組み込んだ。」
○もっと踏み込んで論じてほしかった点
(『日本王権論』の著者であり記紀の構造主義的な分析を行った上野さんの目から見て)
『我身にたどる姫君』をめぐって
木村さんが女院と女帝の対立に目を付けたところは、素晴らしい。
けれども、階級の中にもう一つ、血統 lineage(皇統と皇統以外)という点を組み込むとどうなるかという問題について、もどかしさを感じる。
『我身にたどる姫君』は摂関家の宮廷支配への怨嗟と皇統の理想化がこのテクストでおこなわれていると言えないだろうか?(現実には果たされなかったことをテクスト内で遂行するパフォーマティブな実践として)
領域横断的なテクストがディシプリン内外で高い評価を受けることの困難について(評価する側もまた試されている)。
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[b][size=large]兵藤裕己さんのお話[/size][/b](概要)
○『乳房はだれのものか』について
とくに第Ⅰ部がとてもよく書けている。
「平安文学研究における乳母の研究の蓄積を踏まえて、そこにフェミニズム批評の方法とか、フロイト、ラカンの精神分析の方法をドッキングさせ、それがとてもうまくいっている」
宮廷社会の政治制度の中で〈生まない性〉として位置づけられていた乳母を基点にして、召人や、中世のトランスジェンダーや同性愛の問題を論じている。
とくに『乳房はだれのものか』の60ページの「宮廷社会の性の制度においては、異性愛と同性愛の区分に先立って、〈生む性/生まない性〉の区分がまず問われた」という指摘は、本書全体を要約するような部分でもあり、たいへんな卓見。
しかし、乳母の政治性を問題にするなら、とくに平安末期(院政期)に乳母が強力な政治性を持つことについての研究は避けて通れない。
『平家物語』における乳母の問題はきわめて重要であり、そういう問題についても論じてほしかった。
当時の政治社会、武家社会への目配りがもう少しあってもいいのではないか。
第Ⅱ部について
女帝の問題、女性の弥勒信仰や兜率天往生の問題についての論は、かなり成功している。
しかし、平安後期になると、男たちもしばしば兜率天往生を願っている。兜率天往生の問題を女人往生の問題に特化できるだろうか、という疑問(道長には弥勒信仰、兜率天信仰もあったということはよく知られている。)
第Ⅲ部について
八幡信仰には先行研究の膨大な蓄積があるが、それらを読破して、女性史の問題として刺激的な論を立てている。
しかし柳田国男の八幡信仰論ともっと向き合っても良かったのではないか。柳田の八幡信仰論を超えるものはまだ出ていないのではないか。
また、室町時代の『曾我物語』を論じるなら、軍記物語としての先行作品である『平家物語』における重要な女性の問題についての言及があっても良かったのではないか(今後の課題として)。
○全体的な感想として
二冊ともに、木村さんの長所が十分に発揮されている。
国文学研究の主流である作品のトリビアルな内部研究から一歩距離をおき、作品をより広いコンテクストの中に置き直すことで、自分の論を組み立てようとしている点が好感を持てる。
木村さんのそのような研究スタイルが、乳母論や召人論としては成功している。
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[b][size=large]クリスティーナ・ラフィンさんのお話[/size][/b](概要)
○北米で日本文学に取り組む者として、木村さんの『乳房はだれのものか』をどう見るか
木村さんの作品は理論構造が明快で、率直であり、非母語話者としてもわかりやすい。
この木村さんの作品のスタイルは、木村さんの性格とも結びついている。
『乳房はだれのものか』は三つの大きな貢献をしている
貢献1 日本中世文学、物語研究を、従来の枠から切り離す。
日本の文学研究は狭くて細かい研究が多く、その結果、論の焦点が意味のないところへ絞られる傾向があるが、木村さんの研究は、そうした現状に逆らっている。
(木村さんは、これまで中世文学の研究で無視されてきた『とはずがたり』『我身にたどる姫君』『曾我物語』に着目。)
貢献2 取り上げられる作品を、過去の研究と違った新鮮な視点から読み直すこと。
(例・『とはずがたり』の二条を召人として解釈、女人救済の問題として分析)
貢献3 文学作品を通じて、中世の性の制度(セクシュアル・エコノミー)を読者のために再構築し、説得的に論じること。
木村さんの召人論は「ジェンダー」という概念の脅威を復活させている。
召人は、妻格の女の序列から排除されるものであり、生物学的に子どもを生む能力を持っていても、実際に出産しても〈生まない性〉に位置づけられることを木村さんは指摘。
「実例を挙げながら、生むという身体的な行為、生む性という文化的な定義づけが論証され、その成果が『ジェンダー』の根本的な問題を新しい視点から切りひらいているのです。性的役割分担、階級の重要さは従来の研究でも強調されてきましたが、出産と母性の親子関係を、身体の潜在的・生物学的な行為から切り離すのは、これまでにない視点です。女性でありながら、生むという生産的な行為から排除されることは、近代社会、そしていまだに女性を母性と結びつける現代の視点からは、なかなか想像しにくいです。木村さんが言うように、一夫一妻をとる現代社会でいえば、生む性と生まない性とをわける分断線は男女の性別であり、すべての女性は生む性として登録され、同性愛は、生む性を阻害するものとして排除されるのです。」
○木村さんの中世文学研究が現代の性の制度に対して示唆する問題
2008年のアメリカにおける「男性の出産」の話題についての語られ方をめぐって
(FtMのThomas Beatie氏の妊娠に対する反論と宗教的非難)
母性と出産の固定概念に再認識をせまる例として
○木村さんの国際的活躍
北米の学会への頻繁な参加、去年から一年間のフランスでの研究、エストニア、イタリア、イギリス、ブルガリアなど、飛び回って発表してきた。
比較の視点、学際的な視点をもって活躍している。
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以上が、三人の方の講演の概要です。
本講演会は全体として、木村さんの作品の魅力と奥深さとが、中世文学は全くの専門外のレポーター(林)にも、わかりやすく伝わってくる内容だったと思います。
そして私個人としては、木村さんの作品そのものの面白さ以上に、領域横断的に〈知〉をつなぎ、広く世界へ向けてその〈知〉を発信していこうとする木村さんの姿勢に、たいへん感銘を受けました。
ぜひその木村さんの実践を、「つなぐ」ことを目的とするサイトであるWANにおいてこそ紹介したいと考えて、この特集を組んだ次第です。
取材にご協力くださいました木村朗子さんと女性史学賞選考委員会の皆さまに感謝します。
(終)
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