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今田絵里香さん、日本教育社会学会奨励賞受賞記念インタビュー(上)
2010.10.01 Fri
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.昨年、今田絵里香さんの『「少女」の社会史』(2007年、勁草書房)が、第3回日本教育社会学会奨励賞(著書の部、2009年9月)に選ばれました。今田さんは、2007年10月にも、同書で、第31回日本児童文学学会奨励賞を受賞なさっています。
WANでは、今田さんがこれら二つの賞を受賞されたことを記念して、インタビューを企画しました。インタビュアーは、林葉子です。
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林 今田さん、このたびは、御著書『「少女」の社会史』で二つの賞を受賞なさいまして、本当におめでとうございます。今田さんと私は、同じ研究会(近代女性史分科会)で学んできた研究仲間で、今田さんが『「少女」の社会史』としてご研究をまとめられる過程でも、何度か研究報告を聞かせていただく機会はあったのですけれども、あらためて、この機会に今田さんのご研究について詳しく伺って、それをWANの読者にも広くご紹介したいと思い、インタビューを企画してみました。
『「少女」の社会史』の「はしがき」を拝読しますと、本書の問題意識が今田さんご自身の子どもの頃の読書体験と強く結びついていることが推察されます。また本書全体を通じて、「少女」の形成過程に、読み書きという経験がいかに重要な意味を持っていたかということが明らかにされています。このインタビューでは、もう少し、そのあたりを詳しく教えていただきたいと思います。今田さんご自身は、子どもの頃、どんな本を、いつ、どのように読まれたのでしょうか。特に印象に残っている読書体験がありましたら教えて下さい。また、読む経験だけでなく、書くこと、たとえば手紙や作文を書いたり、物語を書いたりすることについても、今田さんは熱心に取り組まれていたのでしょうか?
今田 本書では、文字を読み書くという行為が、自己と他者に意味を与え、世界を構築する過程を描き出そうとしました。『少女の友』を舞台にして、吉屋信子が少女小説を紡ぎ出し、西條八十が少女詩を作る。それを読者が読み、投書する。このような行為によって、「少女」という表象が、非常に価値のあるものとして生み出されていきました。
同時に、私は、このような文字の力、すなわち世界を構築するという力に惹きつけられた女の子たちを描き出したいと思いました。『少女の友』を読んでいると、投書する女の子たちが、「どうにかして自分自身を価値あるものとして意味づけたい」「少女に生まれてよかったと思いたい」と考え、実践していたことがわかります。それはもう並み並みならぬ欲望なのです。文字はそのとき、女の子たちに大きな力を与えてくれます。現実がどうであってもいいのです。文字がくすんだ現実を色鮮やかなものにしてくれるからです。逆に、文字に惹かれる女の子たちには、「自分に価値があるとは思えない」「少女に生まれてよかったと思えない」という現実があることが、わかってきます。
少女雑誌を「女の子にジェンダー規範を与える装置である」と言い切ることもできます。女の子はその規範を与えられるだけの無力な存在に過ぎなかったということもできます。実際、渡部周子氏はそのように少女雑誌を捉えておられます。もちろん、それが間違っているとは思いませんし、無意味であるとは思っていません。しかし、私はそのような捉え方はしたくなかったのです。
ただ表象を与えられるままの無力な女の子ではなく、その表象と表象を作り出す行為そのものに惹かれる女の子を描けないか、と思ったのは、私自身が、そのような文字を読み書きする行為に惹かれた女の子の一人であったからかもしれません。私は子どもの頃から本を読むことと文章を書くことが好きでした。そしていつかそれが仕事になったらいいなあと思っていました。中学生・高校生の頃は、読者の詩を掲載する『詩とメルヘン』(2003年休刊、サンリオ。やなせたかし編集)を愛読し、詩を作ったり文章を書いたりしていました。今は幸いなことに、京都大学に助教として雇われ、研究書を読んだり論文を書いたりして過ごしているので、その夢は形になりつつあるといえます。また、助教としての仕事とは別に、児童文学創作集団『プレアデス』同人となって、児童文学作品を作り、仲間と批評し合うこともしています。
林 『詩とメルヘン』! 懐かしい‥‥私も中学生のころ、愛読者でした。当時は私も詩を書いて投稿していたのですけれど、高校に入ってからは、たぶん受験勉強の影響だと思うのですが、詩が書けなくなりました。きっと創作は、頭を柔軟な状態にしている時でないとできないことだと思うのですが、今田さんは現在も研究と平行して創作を続けていて、素晴らしいことだと思います。そしてそのご自身の経験を、研究内容にも活かしておられる。
今田 『少女の友』の文芸欄では、作文を投稿する文学少女たちの熱気で溢れ返っていました。「いつか吉屋信子みたいになりたい」。誰もがそう思って投稿に励んでいました。そのような気持ちをどうにか捉えて研究論文にしたいと思ったのは、私自身がそのような気持ちを抱いていた女の子だったからかもしれません。
小学生の頃、私が好きだった作品は、ありきたりですが、モンゴメリ原作・村岡花子翻訳の『赤毛のアン』です。それはなんといってもその作品が、女の子の思想と生活について書かれたものだったからです。しかもそれを非常に美しいもの、価値あるものとして描いていたからなのです。私は『赤毛のアン』を読んで、「女の子がその子らしく生きていていいんだ」とほっとしました。なぜ、そんなことを思ったかというと、子どもながらに、「名作」といわれる文学にも偉人伝にも、女の人がほとんど出てこないことに気づいていたからです。逆に言うと、女の人がたくさん出てくる作品は、「名作」とは扱われないのです。武者小路実篤の『友情』は「名作」ですが、吉屋信子の『女の友情』はそうではないのです。したがって、価値あるものになるためには、男の子になるか(『友情』の主人公になる)、男の子に気に入られるような女の子になるか(『友情』の主人公が恋する女の人になる)、そのどちらかしかないように思っていたのです。『赤毛のアン』あるいは『少女の友』の魅力は、ありのままの自分が肯定されるというところにあるのかもしれません。そのような「気づき」は、後に、「女の文化とは何か」「女の文化に惹かれるというのはどういうことなのか」ということを考える重要な契機となりました。
林 「女が書いたものは、なぜ、男が書いたものよりも価値の低いものとされてしまうのか?」という問題は、思想史研究をしている私も常に向き合わざるをえない問いですので、今田さんの問題意識にとても共感しています。私自身は、大学入学時は政治学専攻だったのですが、日本政治思想史のスタンダードなテキストには女の思想家は出てこないんですよ。女の書き物は「思想」として認知されないのだなと思ったら、せっかく希望通りに政治学を学び始めたのに、大学入学早々、やる気が減退してしまって困りました。
ところで、今田さんご自身と「少女」との距離について教えて下さい。今田さんは本書の最初に「わたしが『少女』というカテゴリーについて知りたいと思い始めたのは少女時代のことである」と書かれています。また、あとがきには「今も宝塚歌劇を愛する母方の祖母」と書かれてあって、それを読んで私は、今田さんや今田さんのご家族が部分的にせよ「少女文化」を共有しておられるのではないかという印象を持ちました。私自身は、自分の子どもの頃を振り返るときに「少女時代」という言葉を滅多に使いません。自分の気持ちにぴったりくるのは「子ども時代」という言葉で、思い出の中の自分自身は「少女」ではなく、「子ども」あるいは「女の子」です。「少女」というのは、本書でも指摘されているように、特別な含みを持つ言葉ですよね?
今田 私は十代の頃、「少女」あるいは「少女時代」について複雑な思いを抱いていました。「少女」は「少年」とときに同じものとみなされ、ときに「少年」とは異なるものとして扱われているように思っていました。たとえば、教育の場では、男の子と同じように学歴獲得競争を強いられつつ、社会の至るところで男女の学歴効果には大きな違いがあることを見せつけられる、というようなことです。なので、私にとって「少女」として生きることはよくも悪くもあったし、「少女時代」はよいとも悪いともいえない時代であったのです。小学五年生のとき、図書館で中桐雅夫の詩集を借りたのですが、そのなかに「子供の悩みを軽く見てはいけない、/おとなになっても、おとながいうように、/子供時代は楽しかったなどとはいうまいと思った」とあり、そのときの私の気持ちにぴったりあてはまったのをよく覚えています。要するに私にとって、「少女」「少女時代」は、よいものとも悪いものともいえない、よくわからないものであったのです。なので、私が「「少女」とは何か」ということを研究しようと思ったのは、そのような「わけのわからなさ」に取り組んでみたいという動機によるものでした。
しかし、私の祖母はそうではなく、「少女」「少女時代」に大きな価値を見出していました。祖母は「少女時代があらゆる時代のなかでもっとも価値ある時代である」というようなことをよく語っていました。そしてそれは「少女」という言葉を使って表現されていました。私が『少女の友』を読んだとき、祖母のことを思い出しました。そのときに、「少女」「少女時代」に独特の価値が与えられた時代・土地・階層があったのかもしれない、と漠然と考えたのです。後に、私が『少女の友』について論文を書き始めたときにわかったのですが、祖母は『少女の友』の読者でした。
林 子どもの複雑さを深く理解するおばあさまが身近にいらっしゃったことが、今田さんにとっては、大きかったのですね。子どもという存在の多面性を反映してか『「少女」の社会史』という作品は、さまざまな読み方が可能であるところが素晴らしいと思います。『少女の友』論として読んでも面白いですし、読み書きの歴史としても読むことができるし、「子ども」論や「家族」論という切り口から読んでも興味深いです。そして今回の受賞は、教育社会学の専門書としての受賞ですね。今田さんが教育社会学を専門的にご研究なさるにいたった経緯について、教えていただけますか?
今田 ありがとうございます。先程、研究のきっかけに少し触れましたが、私はもともと教育の場で男子と女子が異なる取り扱いをなされ、異なる世界を生きていることに興味を持っていました。そこで、1990年代以降、教育社会学において盛んに行われるようになった「ジェンダーと教育」研究に取り組んでいきたいと思いました。本書では、近代日本の少女文化に着目し、「少女」という表象の歴史的変遷を明らかにしています。しかし現代日本の女の子の文化についても興味があります。「女子高校における女性性利用型成功志向」(木村涼子・古久保さくら編『ジェンダーで考える教育の現在──フェミニズム教育学をめざして』解放出版社、2008年)では、高校が作り出す女子生徒文化の違いについて、明らかにしています。
林 最近では、現代の問題にも視野を広げておられるのですね。
次回のインタビューでは、今田さんの歴史研究と現在の問題へのご関心とのつながりについて、さらに詳しく伺いたいと思います。
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