
※作品の内容に対する記述があります。
※作中には性暴力の描写があります。ご注意ください。
雑誌「世界」で連載中の、小川公代先生による「〈小さな物語〉の復興 「フランケンシュタイン」をよむ」がとっても面白く、毎号楽しみに読んでいて、そのなかでこの『カラーパープル』について言及されていたので見てみた。
アリス・ウォーカーの同名小説を基に、スティーヴン・スピルバーグが1985年に監督した作品を、ミュージカル映画としてリメイクした今作。
20世紀初頭のアメリカ南部を舞台に、黒人女性セリーの人生を描く。
あらすじ↓
横暴な父に虐待され、10代で望まぬ結婚を強いられた女性セリー。唯一の心の支えである妹とも離れ離れになり、不遇な日々を過ごしていた。そんな中、型破りな生き方の女性たちとの出会いや交流を通して自分の価値に目覚めたセリーは、不屈の精神で自らの人生を切り拓いていく。
(映画.comより)
セリーが生きる環境はあまりに過酷だ。まだ幼いころから義父の子供を産まされ(その子供は売られてしまう)、暴力と隣り合わせの生活のなか、駒のように働かせられる。「馬一頭と卵」だけで取引され決められた結婚で家を出ても、待っているのは新しい地獄だ。夫となったミスター○○(名前もわからないまま結婚する)の暴力に耐えながら奴隷のように働く日々。唯一の希望であった愛する妹ネッティーも、ミスターからの性暴力に抵抗したばかりに、街を追放され生き別れの状態になってしまう。
20年代初頭は、とりわけ黒人たちが酷い人種差別を受けていた時代である。アメリカ史上最悪の人種虐殺事件と言われる「タルサ人種虐殺」が起こったのも1921年のことだ。しかし黒人女性は、白人社会から受ける人種差別だけでなく、黒人男性からも性別を理由に差別を受け続けていた。セリーが置かれていた過酷な状況は、人種、ジェンダー、貧困などの様々なインターセクショナリティによってもたらされていた。
白人社会、そして男性社会から虐げられ生きてきたセリーは、もはや抵抗する力を奪われていた。しかし、自分と同じように過酷な環境で生きてきたはずの、それでも自分の尊厳を信じ守ろうとする女性たちと出会うことにより、彼女は自分の声を取り戻していく。
ミスターの息子の妻・ソフィアは、相手が誰であろうと怯まず自分の意見を主張する女性だ。夫とも対等な関係を望み、暴力により支配には決して屈しない態度を見せる。しかし、彼女はある日、街で偶然会った白人の市長からの差別的態度と暴力に応戦してしまい逮捕され、6年間も不当に刑務所に収容されてしまう。ソフィアが自分で育んできた闘争心と自尊心は、この事件で失われてしまった。ソフィアの良き友になっていたセリーは、彼女を励ますため6年間毎週刑務所に面会に通い続ける。
そしてもう一人、セリーを変えたのが、シャグという女性だ。
歌手として活動し各地を飛び回っているシャグは、帰ってくるたびに街中が騒ぐような人気者だ。恋人もたくさん作り、「尻軽」と揶揄されることもあるが、主体的に行動する姿がセリーには眩しく見えた。
実はシャグはミスターのかつての恋人で、家までやって来て次の街に行くまでの数日を過ごすことになる。シャグは、セリーの暴力に耐え続けた人生の話を聞き心底共感し、慰め、心を通わせる。そのうち、二人は愛し合うようになる。
ソフィアやシャグのような女性たちと出会い、セリーは自分が置かれている理不尽な環境を疑い始める。
ミスターが実は何年間も妹ネッティーから自分宛てに届いていた手紙を隠していたことを発見し、セリーはこっそり返事を書く。しかしそれがミスターに見つかり酷く暴力を受けたことにより、セリーの怒りはいよいよ頂点に達する。セリーは今まで使ったことがないような言葉でミスターに怒鳴り、逆らい、ついにはシャグと共に家を飛び出し、自分の人生を築いていくのだった。
この映画は確かに、人種、階級、ジェンダー、そしてセクショナリティなどの様々な交差性の中で、あらゆる点においても差別され抑圧され生きる人たちの過酷な状況を告発するような力を持つ作品であった。
しかし気になってしまうのは、セリーが最終的に掴む成功や幸福は、彼女の「善性」や「運の良さ」に依るものが大きかったという点だ。
ミスターの家の飛び出した後、セリーは実は、自分が本当の父親から土地と家と商売のできる店舗を相続していたということを知る。彼女はその店舗で裁縫の才能を活かし、女性も履けるパンツを売るアパレルショップを開き成功する。
このような展開が「酷い環境のなかずっと耐えながら善良に生きてきた彼女への、神様からの褒美」のように見えなくもない。言うまでもなく、彼女が不当に受ける差別や暴力は、彼女の性格の良し悪しとは関係がなく、理不尽な環境からの解放は社会変革として行われるべきだ。
実際の20世紀初頭を舞台に描いていることから、セリーという個人の解放を描くのがやっとだったのかもしれない。
そしてもう一点気になるのは、彼女の「赦し」の描き方についてだ。
ミスターは、セリーが家を飛び出した後は落ちぶれたような生活を送っていた。代々継いできた畑は害虫に荒らされ燃やすしかなくなり、毎日飲んだくれては息子にも邪険にされる。もうどうしようもなくなった時、彼の頭にセリーが放った「私を虐げる限り、あなたには不幸が訪れる」という言葉がふと蘇り、彼は改心する(改心したものとして描かれている)。畑を売って金を作り、セリーの妹ネッティーが地元に帰ってくるための資金源にしようとする。
そして店までやって来て、関係をやり直せないかと言ってきたミスターに対し、セリーは「友達からね」と言ってやるのだった。
もちろん、ある人を赦すか赦さないかというのはどんな場合であっても本人が決めることであって、他人が口出しをすることではない。しかし、これではどうも物語自体が、セリーに「慈愛に溢れた心の広さ」のようなものを要求しているような気がしてしまう。
ミスターは、セリーの店にやって来て早々、しおらしく「このパンツを買わせてくれ。売れ残ってるなら店のためになるだろう?」と商品を購入する。
お前が数年ぶりにセリーの前に現れてまずやることがそれか?俺のこの態度を見れば反省してることがわかるだろう?と言わんばかりに含蓄に富んだ洒落てる風のコミュニケーションをしている場合ではない。まず今、誠心誠意、謝れよ。
そんなコミュニケーションのなかで、ミスターがどうやら心を入れ替えたらしいこと、そして関係を戻したがっていることを察したセリーは、「友達からね」と言ってやるのだ。今まで散々な目に合ってきたセリーに、それでもまだ心の広さを要求するのかと、私はどうしても思ってしまう。
そしてこのような描写は、「セリーのように善良で、慈愛に溢れ、何があっても広い心で赦してやることのできる女性こそが幸せを手にできる」というメッセージを広めてしまうことにもなりかねない。
たとえば、NHKで放送されていた朝ドラ『虎に翼』では、「赦さないこと」についても描かれていた。
謝られても、受け入れられなければ赦さなくていい。誰が何と言おうと、怒っていていい。
謝ったからといって既に起こったことを水に流すことはできない。赦さないからもうあなたと関わらない、ということももちろんある。しかし、赦さないうえで、その人を尊敬することも、感謝することも、関係を築き続けることも、人はできるはずなのだ。
とはいえ、相手がどうであれ、セリーは赦すことで自分自身の暗い過去に終止符を打ったのだと見ることもできる。
ミュージカルというリメイクも、セリーの歌声の変化によって、セリーが自分の力強い声を取り戻していく様や、女性同士の歌声が重なり合うことで彼女たちの連帯がより一層伝わってくる作品になっていた。
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松村ひらりプロフィール
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俳優、フェミニスト。青山学院大学文学部比較芸術学科卒業。卒業論文は『映画は「女性をめぐる偏見」の強化もしくは緩和にどれほど影響を与えてきたのか?-映画の影響力を数値化する試み-』。
現在、映画『アディクトを待ちながら』が公開中。2023年、坂手洋二演出劇団燐光群の舞台『九月、東京の路上で』のほか、瑠東東一郎演出のドラマ『うちの弁護士は手がかかる(フジテレビ)』に片山菜々子役で出演。2024年は、劇団「趣向」の舞台『べつのほしにいくまえに』でジュリエット役を演じ、ニューヨーク大学の荻野緋菜監督作品『SALT IN SOIL』では主演を演じた。
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