
WANフェミニズム入門塾の第2回目が2月20日(木)に開催されました。
第2回目は「フェミニズム理論」がテーマでした。
本塾には、年齢も性別も出身国もさまざまな参加者が集まっています。
そのおかげで、それまで思いもつかなかったあらたな気づきや発見、学びを得る場となっています。
今回も、講義や受講者同士の議論をもとに考えたことや感じたことを受講者がレポートにまとめました。
いや、レポート以上の、みなさんへの、そしてわたしたち自身へのメッセージです。
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① 第2回塾後レポート ◆ 葦家ゆかり
第2回の講義のテーマは「フェミニズム理論」でした。
現在の社会が男性優位であることや、子育てや介護における女性の無償労働問題、女性の母性に全てを押し付けた家族構成の在り方、バックラッシュを乗り越えながら進歩していったフェミニズム理論について学ぶことができました。
私は今33歳ですが、ここまで生きてくる中で女性の社会における立場の弱さというものを強く感じてきました。
そして今までの女性史を学びながら、これからの社会はどうなっていけば良いのだろうと考えます。
ディスカッションの時に、「女性は元々、筋力も体力も男性より無い上に、毎月の生理痛に妊娠出産によるダメージ、更年期……と体調不良の連続であり、どうしても仕事量に差が出てしまう。そんな男性と女性が公平に生きることのできる社会になれるのだろうか?」という趣旨の質問をさせて頂きました。
その時に「残業が全ての元凶なんじゃないか?」という意見を頂いて、これが時間が経ってもすごく私に響いています。
確かに1日7時間や8時間労働で家に帰ることができれば、女性と男性の体力格差も大きくは響かないでしょうし、子育てが全て女性に押し付けられてしまう問題も解決できるのではないかと思います。
実際うちにも子どもが産まれた時、私の夫も子育てを手伝う気持ちはあったものの(最初は自分が何か子育てや家事をしなければいけないという意識はありませんでしたが、怒っているうちに段々と変わってきました苦笑)
残業が無くなれば男性の家庭への協力も増やせますし、育児も介護の問題も、もっと女性と男性が対等な立場で話し合って進めていけるのではないかと思います。(それでも、夫婦間で経済格差があると完全に対等に話し合うのは難しいのかもしれませんが……)
そして今の社会では、男性にも「稼がなければ」というプレッシャーが強くのしかかっているのではないかと思います。女性が働きやすくなることが、男性の生きやすさにも良い影響があるのではないかと思いました。
私にも子どもがいるので、若い人が生きやすい社会へ日本をもっと変えていきたい。変えなければ。と強く思います。
この講義とディスカッションは、常に発見の連続です。引き続きたくさんのことを吸収し、考えてみたいと思います。
次回も楽しみです。
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② 第2回フェミニズム理論 ◆ ワン キブン
大学四年生の時、私はフェミニズムに出会った。社会で相次ぐスキャンダルをきっかけに、女性が性暴力を受けた際の心理的な傷とその影響について関心を持ち、それがフェミニズムを学び、考察する契機となった。理解を深めるにつれ、当初抱いていた「フェミニズム=男性が生み出した家父長制に抗う学問」という単純な認識が覆された。フェミニズムは、経済・政治・歴史を含む広範な領域にわたる学問であり、より大きな枠組みで見れば、人類学の一環でもあると気付いた。
儒教思想が色濃く残る中国で育った私にとって、ミソジニー(女性嫌悪)や資本主義的家父長制の問題は、すでに社会のあちこちに存在していた。しかし、フェミニズムの書籍を読むことで、それらの断片が一本の線となり、社会構造を捉える鮮明な視点が生まれた。
今回のセミナー第2回では、依然として未解決の女性問題について考えさせられた。とりわけ、新自由主義の政治経済体制のもとでフェミニズムが後退している現状を、どのような理論で説明し、社会の女性たちにその問題を認識させ、連帯を生み出せるのか。この問いに対し、私は中国人女性としての視点から探求し、答えを模索したい。
新自由主義のもと、政府は福祉を削減し、市場経済の自由化を推進することで、女性の社会的立場はますます脆弱になっている。この状況を打開するために、社会主義の「社会正義」という価値観を新たな形で提示することは可能なのか?私たちは未来の人類社会、そして女性の尊厳が保証される社会をどのように想像すればよいのか?
毛沢東時代の中国では、「女性は半分の天を支える」というスローガンのもと、男女平等が奨励され、女性は重要な労働力として動員された。政府は保育所や工場食堂などの公共サービスを提供し、女性の仕事と出産を支援した。しかし、西洋のフェミニズムが個人の解放を目指したのに対し、中国の女性解放は集団主義の視点から社会運動と結びつけられた。階級闘争を通じて私有制を打破することが女性解放の鍵とされ、女性は「集団の力」として政治的に利用された。必要な時には「理想の女性像」がプロパガンダとして掲げられ、例えば、農村での労働動員の際には「労働によって家庭内の地位を確立する」というイメージが強調された。しかし、この手法はあくまで一時的な戦略であり、多くの女性たちは公的労働に従事する一方で、家庭内の家事労働も怠ることは許されなかった。また、政府が「男女平等」を掲げ、労働のジェンダーレス化を推進した結果、女性は過酷な肉体労働を強いられることとなった。「鉄の娘(鉄姑娘)」のような理想像が作り上げられ、女性の勇敢さや忍耐力が称賛されたが、実際には彼女たちの権利は守られなかった。この極端な労働搾取により、多くの女性が健康を害し、中には生涯にわたり生殖能力を失う者もいた。
改革開放後、中国は新自由主義の波を受け、女性の状況はより複雑になった。市場経済の導入により、出産・育児の役割が私有化され、女性の経済的格差と社会的評価の低下が進んだ。女性の就職差別、ワークライフバランスの困難、農村女性の負担増加などが重なり、労働参加率と収入の低下を招いた。同時に、文化的な語り口によって女性は「劣悪な労働力」として位置づけられ、性別による偏見が一層強まった。新自由主義の改革は個人の自由を拡大したが、女性にとっては不平等と不安定さを加速させるものとなった。
中国がいかなる経済体制を採用しようとも、女性は常に発展の犠牲を強いられてきた。この根本的な要因として、儒教的な家父長制の価値観が社会に深く根付いていることが挙げられる。なぜ家事労働を担うのは常に女性なのか?なぜ社会発展の代償として女性が選ばれるのか?バウマンの理論を借りるならば、新自由主義における労働力の過剰供給は構造的な問題であり、予備労働力の創出は意図的に行われている。その最前線に立たされるのが女性である。プロパガンダ、マスメディア、消費文化により、女性は劣悪な労働力として位置付けられ、意図的にスティグマを植え付けられてきた。もしかすると、女性はグローバル資本主義が生み出した「消費廃棄物」を家事労働という形で処理させられているのかもしれない。しかし、問いは原点へと立ち戻る——なぜ、いつも女性なのか?
この問いは、私たちが思い描く未来社会の核心にも関わる。そこでは、女性が偏見から解放され、真の意味で人格の平等が実現される。個々の尊厳が認められる社会であり、神経症的な集団主義の幻想や、古くから続く性別本質主義のフェティシズムに浸る社会ではない。女性はニーチェの「超人」のように限界を超えることもできるし、あるいは共感と慈愛に満ちた存在となることもできる。ただし、それは道徳的偏見に縛られた「見える政治」の中で、周縁化された弱者として生きることではない。女性には想像力と主体性を発揮し、「ユニコーンのような理想の世界」を現実のものにする力がある。
女性たちは団結し、権力構造の不正と巧妙さを見抜き、男性の価値観を盲目的に受け入れるのではなく、女性自身の価値基準を社会に認めさせる必要がある。そのためには「嫌われる勇気」が必要であり、同時に揺るぎない自信も求められる。しかし、社会は常に女性の自信を削ぐ要素に満ちている。私は性別本質主義に対してまだ疑問を抱いているが、ひとつ確信していることがある——世界は女性の身体から生まれた。だからこそ、女性には世界を変える権利がある。
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③ 第2回フェミニズム理論 ◆ 京都タワ子
第2回WAN塾に参加し、男性中心主義的な学問やそれに基づき発展した男性中心の社会~その歪みさえも認識されない男性中心の社会にあって、その歪みを指摘し正すためにシャープな思考や発言、時にビーンボールを投じる力強さ、その基礎となる整然とした理論により女性の地位が改善されてきたことを学んだ。
私は現在20代の会社員であり、リレーに喩えるならば、フェミニズム第一波の流れから数えて、第五走者あたりであろうか。第五走者である私たちは、すでに成人になるとともに参政権を持っており、花嫁修行や腰掛け就労という言葉はかつての話で、仕事か家庭かという二者択一を迫られる時代には生きていない。これまでのフェミニズム運動の歩みは、確実に女性の地位を向上させてきた。しかし、水田珠枝氏が、1970年代初期において、「生活資料の生産」と「生命の生産」という二つの生産関係を読み解いていたように、労働とケア労働の問題は、根深く続いており、第五走者である私たちが、そのバトンを受け継ぎ、あるべき姿を追求する実践的志向と「いま―ここ」を超えた次元への志向をもって、女性を自律する性へと発展させてゆかなければならないと感じた。
労働とは、「値が付く」社会的活動のことをいい、ケア労働とは、「値の付かない」家庭という私的空間での活動をいう。前者の労働は、社会に対して提供する労働のことであり、かつては奴隷という値が付かない労働であったが、時代とともに奴隷から農奴、市民(労働者)へと変身し、自らの労働で生計を維持し、自らを解放する(自己実現を目指す)までに至った。一方で、後者の労働は、女性の出産・育児・家事という社会的な生産活動以外の労働であり、市場価値を付加されることなく、いくら労働しても明日の食い扶持にはならない。つまり、ケア労働に従事することは、誰かに食べさせてもらうことと一体であり、そこに自己の解放に達する術はない。産む性に自動附帯されるケア労働は、常に母性と紐づけられていたため、価値の付けようのない神聖なものとして扱われ、労働的な側面としての価値が埋没していたのである。このことはとりもなおさず、労働とケア労働との間の歪な社会構造の温床になったと言えるであろう。
今、私たちがジェンダーの実質的平等を実現する上で、障壁となっているのは、まさに第一世代の先達から続く、性別役割分業の根深さなのではないだろうか。社会を見渡せば、非正規雇用、扶養控除の収入制限、出産・育児・介護によるキャリアの中断、女性の管理職登用率、シングルマザーなどの問題が横たわっている。これらすべての問題に共通するのは、ケア労働を無償労働という前提におき、その上に社会制度を築くという社会の歪さにある。
例えば、女性が非正規雇用を圧倒的に占めるのは、その多くがケア労働を担っているためである。ケア労働を担わないケアレスマンを前提としている働き方では、出産・育児・介護などのライフイベントはキャリアの中断を意味し、出世コースや既定路線から逸脱するマミートラックなどに陥る。その結果、残されるのは非正規雇用のポストであり、依然として配偶者(男性)の収入に頼らざるを得ない状況を作り出しているのである。また、扶養控除の収入制限は、家事労働には値が付かないことを前提に、作られた制度である。もしもケア労働にそれに見合った対価が支払われるならば、はたして扶養控除額の103万に収まったのだろうか。
このような社会現象は、水田氏の言葉を借りれば、「相互依存関係にあるはずの生命の生産と生活資料の生産」が、対立関係におかれたことが、男性が女性を抑圧する社会を生み出したのである。生活資料を生産することができない女性は、家事・育児・介護という無償のケア労働を引き受けた途端に、弱者に零落してしまう。しかし、女性はそもそも社会的「弱者」なのだろうか。女性は生物として「弱い」のではなく、ケア労働に価値がつかなかったことで、不当に社会的「弱者」にならざるを得なかったのではないだろうか。第五走者である私たちは、負の遺産として色濃く存在するこの「弱者像」を返上するのが使命であると感じている。
現在、男女雇用機会均等法に続き、女性活躍推進法、次世代育成支援対策法が施行され、性別役割分業は是正されつつあるかのように見える。負の遺産を乗り越え、少しずつ進んでいるように見える。しかし、そのアプローチは、女性によるケア労働の前提を残しつつ性別役割分業の解消を試みるものであり、ケアレスマンモデルの抜本的な改革に迫るものではないように思われる。周辺部分をいくら改善したとしても、本質的なところが見直されない限り、その実態は金メッキが被覆したレベルで、まだまだ本物(純金)とは言えないのではないだろうか。
私たちの世代は女性活躍推進法、次世代育成支援対策法や育児介護休業法などの諸法律が表面的な理解や運用に留まらず、より深く社会に浸透し、生活資料の生産と生命の生産の対立関係を解消し、これらの価値そのものが根本から問い正される社会へと昇華させるべく歩みを進めねばらない。
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