⑤ 母の自死と父親の再婚~回復の旅へ
1986年1月4日に母は自死した。お正月は昔から嫌いだった。少女時代は父方の親戚が集まって、そのたびに女性たちは食事の支度をしたり、片づけたり、母は座ってゆっくりする時間がいつもなかった。男たちは酒を酌み交わし、酔っぱらって醜態をさらすのが常だった。私はそういうお正月風景を幾度も見せられて、結婚したらこ~んなに大変になるんだ、結婚なんてしたくないと冷ややかな目で見ていたが、お年玉をもらえる時だけ嬉しそうにふるまった。
母の自死前、一緒におせち料理をこしらえて過ごした思い出がある。結びコンニャクを作るのは子どもの頃から私の仕事だった。年齢が上がるにつれ、することはいろいろ増えていった。並んでおせちを作るのはあれやこれやおしゃべりしながら楽しい時間だった。母は美容院に行って髪を整え、きれいになってお正月を2人で迎える準備をしていた。なのに、なんで?

ほころび始めた梅と母。 私が中学生のころの写真
予兆がなかったわけではない。12月に会った時に母はおもむろに、「玲子ちゃん、一緒に死のうか」とつぶやいたことがあった。唐突過ぎる(と私には思えた)、あまりにその場とかけ離れた言葉に、私は「まだ死にたくない」としか言えなかった。母はお正月、年が明けて1月に入ってから、「お母さんがいなくても大丈夫?」と聞いてきた。当時母は大きな病院の看護学校の舎監の住み込みの仕事をしていて、水曜日が休みだった。徒歩15分くらいのところにあった私の住むアパートへは、休みの前日の火曜夜に泊まりに来て、朝が早い仕事のために水曜夜には舎監室に帰っていった。別々の部屋で離れて住んでいることを「いなくても大丈夫?」と勘違いした私は、「大丈夫よ、今だってちゃんとやってるでしょ」と答えてしまった。 1月4日から始まる仕事は朝が早かったので、母は3日の夜に私のアパートを出て帰って行った。いつも母を見送る時は、大きな通りまで見送っていたが、その夜は寒く、母は私を気遣い、ここでいいから、と玄関先で見送った。その時、「楽しいお正月をありがとう」と言い残して、母は闇に消えていった。それが生きている母を見た最後だった。母が闇に吸い込まれて消えていったようで、私はしばらく夜の闇が異常に怖かった時期があった。

母はいつも私を慈しんで育ててくれた。私がちょうど1歳の頃、美しい青谷梅林(京都府)で
住み慣れた関西を離れて、大きく環境が変化して、私と休みが合わず母は寂しかっただろう。私は仕事が早く終わった日には母のいた舎監室に寄って、母との会話を楽しめていたと思っていた。母の舎監室からの帰り道に、遺体霊安室があった。私はその前を一人で通るのが怖くて、病院を訪れて舎監室でしばしの時間を過ごした後は、いつも母に付き添ってもらい病院の正門までを見送ってもらっていた。年末年始休暇が明けてすぐに、冷たくなった母がその部屋に横たわっているのを見るのは辛すぎた。なんで気がついてあげられなかったのだろう。母は死に至る孤独にのみこまれながら、私の悲しい勘違いを聞いて「死んでもいい」と思ったのではなかったか。いくら悔いても悔やみきれないことは人生の中でいくつか出会うのだろうけれど、それまで親しい人の死に出会わずお葬式にも出たことのなかった私にとって、母の自死はダントツ最大級の悲劇だった。お葬式の作法もわからなかった。うつ病による病死と考えられなくもないが、私が強がらずに、「お母さんがいないと寂しい」と素直に言えていたら、母は自ら死なずにいられたのではないか。最後の電話で、母が「寒いから気をつけてね」と細い声で言った時、「うん」だけじゃなくて、「お母さんもね」と言い足せていたら、母は死ねなかったのではないか。 葬儀に駆け付けてきた関東に住む母のすぐ下の妹から、「姉が死んだのはあんたのせいよ!」と怒鳴られた。こんなに辛いシーンにあれほどひどいことを言えるなんて・・・。父親も親戚の手前大阪から出てきたが、私は母の遺骨を抱きかかえて、その男には触れさせなかった。
それから2カ月経たぬ間に、父親から再婚すると知らせが来た。悔しい気持ちにすらならなかった。 母の自死の後、しばらくは涙が出なかった。焼き場で小さな骨になって、なんだか肉の苦しみから解かれたような、もう苦しまなくて済むというような、悲しいけれどホッとするような複雑な感情がわき上がってきた。見上げるとその日の空はすごく青かった。母の名前の中に「青」の字があることを思い出した。焼き場から帰って数日たった夜だったか、夢に母が現れた。私は、「お母さん、やっぱり生きてたじゃん、どこに行ってたの?」と自分の放った声で目が覚めた。夢だったとわかったが、それでも会えた気持ちがしてほんのり嬉しかった。 アパートの隣の女性は、霊が見える人だったらしく、焼き場から帰ってきた直後に私を呼び止め、「お母さんが挨拶に来られたの。玲子をよろしくお願いしますって」と、わざわざ伝えてくれた。私には霊が見えないが、いかにも母らしいと思ったものだ。 舎監室に残っていた母の荷物を段ボールに入れて自分のアパートに持ち帰った翌朝、5時に段ボールの中の目覚まし時計が鳴った。朝早くから起きて、夜21時の見回りを終えるまで母は働いた。途中に中休みがあったとはいえ、その時間には看護学生宛の荷物の受け渡しなどで宅急便や配送業者との対応があり、完全に休憩時間とは言えなかった。拘束時間が長すぎた。 母不在の時間を重ねて、もう会えない、一緒に笑ったり泣いたりが本当にできないことを受け止められてからは、涙ってこんなに溢れるものなの?と思うくらい流れた。大根を切っていても、布団を干していても、何をしていても涙は流れた。電車に乗っていて、後ろ姿が母に似た人を見かけたら、もうとめどなく涙がこぼれ落ちた。同じ車両の人は、失恋でもしたんだろうと見て見ぬふりをした。

母がなにかの文章を市報か新聞に寄せた時に撮ってもらったもの。私が大学入学の頃

日本道路地図を1冊、荷物の上に括り付けて鹿児島県から北上ツーリングしていた頃。阿蘇の景色は雄大で、私を癒してくれた
母が存命中のうちから、私は自動車教習所に通って、自動二輪中型免許取得を目指していた。しばらく教習所を休んだが、夢中になれるものがあることがありがたく、私は免許を取って、すぐにヤマハの250㏄のオートバイを上野のオートバイ中古屋さんで手に入れた。湘南や伊豆半島のあたりをよく走った。箱根の山道もよかった。最初の泊りがけのツーリングは信州で、少し自信ができて私は母の当時のお墓参りに山陰へ向かった。途中はユースホステルに泊まることが多かった。寄り道もしながらゆっくり走って何日目かの京都だった。知恩院の前で、停めていたバイクを動かそうとしたら、前輪のところに杭がひっかかって、バランスを崩して自分の膝に倒してしまった。これから一緒に走りましょうと話していた北海道から来ていたバイク青年が心配して病院に付き添ってくれたが、歩けなくて、レントゲンを撮ってもらったら骨折していた。病院に1泊した後は、滋賀県に住むそのバイク青年の親戚宅にお世話になった。親戚の男性も大型バイクに乗られる方で、旅の途中で事故に遭った私をわざわざ車で迎えにきてご自宅へ運んでくださり、私のバイクをご自分が運転して滋賀県へ移動させてくださった。家の真ん中にグランドピアノがある大きな家で、バイク青年のご親戚はある研究所の研究員、妻は音楽の先生をされていた。まだ歩けないくらいの赤ちゃんがいた。オートバイ乗りというのは独特のコミュニティを形成しやすくて、だいたいすぐに仲良くなる。ビールもご一緒しながら1週間お世話になった。父の家には行きたくなかったが、まったくの見ず知らずの方のご厚意もいい加減で切り上げなくてはならない。その方は滋賀の駅まで送ってくださり、ホームまでの階段を私をお姫様抱っこして軽々と運び降ろしてくださった。私はそのお宅にバイクを預けて、大阪へギプスのまま松葉杖なしで片足でピョンピョンしながら休み休み電車を乗り継いで移動し、父と配偶者のいる家に身を寄せることにした。(続く)
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