追悼シンポジウムが開かれた京都文教大学は、西川祐子さんの最後の職場だった。

1996年に4年制大学として開学したときから2008年の定年退職時まで教鞭をとり、その後も共同研究に関わり続けた。最後の著作として出版されたものの中にも、その成果が含まれている(『鶴見和子と水俣』杉本星子・西川祐子編/藤原書店/2024年)。

祐子さんのお誕生日にあたる9月15日のこのシンポジウムで、壇上の写真の祐子さんは優しい色合いの花に囲まれ、穏やかな笑みを浮かべながらもちょっとキリッとした表情を見せていた。

でもシンポジウムで若い研究者たちの口から語られた、教育者としての祐子さんの姿には、穏やかとか優しいとかいう形容詞は含まれていなかった。

とにかく怒られた、こわかったという元教え子たちに、祐子さんがかけた言葉はたしかに厳しい。厳しいというより容赦がない。ただそれは、学生の関心とその背後にある人生を真剣に受けとめ、ことばで表現することの重要性と責任をつねに問いかける祐子さんの姿勢からきたものだということを、教え子たち自身が深く自覚し、その後の生き方の支えにしていることもまた伝わってきた。
資料の探し方、読み込み方、話を聞かせてもらう方への連絡の仕方、テーマの広げ方、視点の持ち方…よくぞここまでと思うほど、祐子さんは研究手法のイロハを伝え、丹念にフィードバックをし、さらには与えられた場で生き抜くためのエールを送り続けた。

西川祐子さんの単著、編著書や指導した論文の冊子を集めた展示コーナーも用意されていた。

私は駆け出しの研究者として京都文教大学で祐子さんに出会ったが、間をおかず離れてしまったために、この場所が祐子さんにとっての大切な現場の一つだったということを十分に飲み込めずにきたのかもしれない。そのことを今回のシンポジウムで改めて感じた。と同時に、「怒られる」機会を逸してしまった私にも、この場を通じてリレーされた言葉がある。それをかみしめたいと思いながら、会場を後にした。

*京都文教大学総合社会学部研究紀要第26集(2025年3月刊)に収められたさまざまな寄稿者からの追悼文はこちらから読むことができます。