
「私は家つき娘だからダメなのよね」
これが今年の1月に95歳で逝去された田中喜美子さんの、ここ数年の口癖だった。実は、田中喜美子さんはお父様が戦前大蔵官僚だったという深窓のご令嬢。わいふ編集部(後述)は田中さんのご自宅の片隅にあったのだが、そこは市ヶ谷にある何百坪もの大豪邸。結婚で姓は変えたものの、彼女は生涯そのお屋敷に住み続けた。
ろくに家事をせず、昼まで寝ているとんでもない主婦だった、それは経済的に夫に依存する必要がなかったから、「家つき娘」だったからだとご自身でディスっておられたのだが、さて、それがそんなに重大なことなのか? 訪問するたび繰り返される田中さんの嘆きの真意を掴むことができず、私はいつも愛想笑いを返していたものだった。
田中喜美子さんは、1976年、それまで関西を拠点に12年間続いてきた投稿誌『わいふ』(現『Wife』)を引き受け、その後30年間編集長を務めた。その間、全国から様々な女性の声が彼女のところに集まってきた。
「間違っているのはあなた」
「我慢するしかない」
「諦めろ」
そんな声に囲まれて身動きとれず、小さくなっていた女性たちに、キラキラした瞳と明るい声で、「あなたの考え方は面白いわね、書いてみない?」と田中さんは声をかけた。
その言葉をきっかけに生きる力を取り戻した女性は数知れず。『わいふ』に書くことで自分の立ち位置をシッカリ見据えて、何人もの女性が社会にはばたいていった。
それだけではない。学校教育の改革に、子育て支援に、そして女性の政治参加促進にと様々な活動に田中さんは携わった。口癖は「みんなで、なんとかしよう」。おかしいと思ったら、黙ってちゃあいけない。考えよう、声をあげよう。その姿勢をずっと貫いてこられた。
今、田中喜美子さんを失って以降半年の、この世界秩序の崩壊を前にして、晩年の彼女の想いが、やっと私にもわかってきたように思う。
田中さんは日本という国の行く末をずっと心配しておられた。政府に苦言を呈しているのだと思っていたが、それだけではないと思う。
田中さんは30年間にわたり『わいふ』を通じで女性のナマの声を聞いてこられた。そしてその声の中に、たくましさ、生来の健康さを感じてこられた。彼女たちのエネルギーを育むことで、世の中は良い方向に向かう。そう信じておられたのだと思う。
だが、いつの頃からか、女たちは田中さんの思う方向には動かなくなった。世の中は厳しい方向に向かっているのに、動こうとしない。どうして(一昔前のように)女性たちが動かないのか。それは「自分が(普通の)女性の苦労や立場を知らないから。家つき娘の私には、動かない女たちの思いがわからない」と嘆いておられたのではないかと思う。
田中さんは『わいふ』の編集から退かれた後も、身銭を切って、女性のための政治誌『ファム・ポリティク』を発行しておられた。それは、『わいふ』に書いてくる生活者たちが、地に足をつけて生きる人たちが大好きだったから。そんな人々を道具のように消費する今の日本に憤り、なんとかこのしくみを変えようと、最後まで心をつくしておられたのだ。
亡くしたあとでなければその想いに気づけないとは、我が身のボンクラさは情けない限りだが、遅まきながらバトンは受け取った、と思う。でも、このバトンを次の世代に渡すにはどうすればいいのか。いや、それを考えること自体が、私が田中さんから託された課題なのだろう。家つき娘ではない私なのだから、できるはず。と、自分に言い聞かせてみる。
※すみません、「惜別」を上野千鶴子さんに勧められて書いてみたのですが、どこに投稿して良いか分からず、、、ここに書かせていただきました。よろしくお願いします。









