
白石正明著『ケアと編集』(岩波新書、2025年4月)を読む。白石さんは医学書院で25年間に<ケアをひらく>シリーズを50冊、編み出し、2019年、このシリーズは第73回毎日出版文化賞(企画部門)を受賞。その間、川口有美子著『逝かない身体』/大宅壮一ノンフィクション賞、熊谷晋一郎著『リハビリの夜』/新潮ドキュメンタリー賞、國分功一郎著『中動態の世界』/小林秀雄賞、東畑開人著『居るのはつらいよ』/大佛次郎賞など、数々の受賞作を生み出した名編集者でもある。
読むほどに不思議な本だなと思った。こんなふうに見方や考え方を変えられたら、きっと生きるのが楽になるだろうなと。「今を少しでも楽にする。痛いことはしない。この場にある不快を、とにかく除去する。そこに居られる「現在」をつくる」というケアを目指して。
白石さんはケアと編集とのかかわりを、北海道浦河町の精神障害者の生活拠点「浦河ぺてるの家」のソーシャルワーカー向谷地生良さんから学んだという。「ぺてるの家」の当事者研究は、精神障害者などの「当事者」が自分たちのことを研究する営み。「自分のことは自分がいちばん知らない」を前提に、自分ひとりではなく、仲間と話し合い、仲間が描いてくれる「自分の像」を「他者経由のアイデンティティ」として尊重し、「自分自身で、仲間と共に」学んでゆくのだ。
ケアの現場では、憑依した状態で「相手の中」に入らないと患者の感覚をつかめないという。ケアは「主体と客体を分ける」のではなく、主語が「自分」ではなく「患者」と入れ替わる行為だと。「これしかない」と考えるのではなく、「こうも考えられる」というふうに別の補助線を引いて、当人が「克服すべき」と思っている「弱さ」や「依存」に対して別の光を与えていく。それはまさに白石さんにとっての編集という仕事そのものでもあったという。
たとえばフィンランドの一病院で始まった「オープンダイアローグ」(開かれた対話)も、その一つ。医師が薬を処方して症状を抑えるのではなく、患者、家族、専門職がチームとなって対話を繰り返し、共に回復を目指していく。そこでは「たとえ問題が解決しなくとも、解消していく」ことが、しばしばあるという。対話を「手段」ではなく「目的」にして楽しむ。それによって何かが変わってくるからだ。
またフランス発祥の認知症ケア技法「ユマニチュード」も同じように、「人間らしさを取り戻すことを目ざして、『あなたのことを大切に思っていますよ』と伝える」コミュニケーションの技法と哲学であるのだと。
ナイチンゲールの言う「病気は回復の一過程である」という言葉もまた、同じ意味なのかもしれない。
「ぺてるの家」の向谷地さんは「相手のことを先に信じること。信じてしまえばこちらの勝ち。もし信じられなければ『念じる』だけでもよい」とケアのハードルを下げていく。向谷地さんは語ることによって回復していく依存症当事者たちを見て、「彼らの病気が治ることより人間として立ち上がっていくプロセスを感じる」と。
そして「話す」ためには他者に通じる言葉が要る。言葉は他者と語彙と文法を共有する。つまり言葉を話している時点で、すでに他者とのコミュニティが成り立っているのだと。
精神医学者の中井久夫さんの、統合失調症の患者たちに対して「医者が直せる患者は少ないが、看護をできない患者はいない。息を引き取るまで看護だけはできるのだ」という言葉も、また同じなのかもしれない。最後まで諦めないのがケアなのだ。
以前、中井久夫さんは何かの本の中に「旅に出る直前、人はみんな不安になる」と書いていた。私も、そうなのだ。海外旅行に行く前は、なぜか日常から離れるのが、なんだか不安になる。でも旅立ってしまえば、とっても楽しいことばかりなのに。つまり今ある状態を変えるのが、ちょっと不安になるのかな?
白石さんは「あとがき」で、「ケアとは何か?」と聞かれたら「それ自身には改変を加えず、その人の持って生まれた<傾き>のままで生きられるように背景(言葉、人間関係、環境)を変えることだ」と答えている。白石さんにとって「編集もまた同じ」と結ばれていた。

この本で立岩真也さんのことが触れられていた。社会学者の立岩真也さんは、惜しくも2023年7月31日、62歳の若さで亡くなられた。難解な名著、立岩真也著『私的所有論』(勁草書房、1997年)でよく知られた立岩真也さんを偲んで、稲葉振一郎+小泉義之+岸政彦著『立岩真也を読む』(青土社、2025年3月)を読んだ。
「はじめに」で岸政彦さんは、「立岩さんが書きたかったことは、自由と平等を同時に達成するにはどうしたらよいのかという素朴で壮大な問いに対する答えではなかったのか」と書く。さらに突き詰めれば「ひとを尊重するということはいかなることか」という問いでもあったと。
『私的所有論』の引用文献の中に、やぎみね著『女(わたし)からの旅立ち 新しい他者との共生へ』(批評社、1986年9月)から2カ所、引かれていたのを知って、もうびっくり。まあ、うれしい。私の拙い本を読んでくださっていたのだ。

1970年代に「青い芝の会」など障害者解放運動が提起した問い、障害者の普通学校への就学闘争、養護学校義務化阻止運動の「すぐ近くにいて聞く側」に立岩さんはおられたのだ。私もその頃、青い芝の会・京都「グループ・ゴリラ」の介護者の一員として「そよ風のように街へ出よう」と重度障害者の自立解放運動に参加していた。安楽死法制化反対運動や家庭基盤充実構想の下、「母子保健法改悪阻止」運動にも、リブの女たちとともに、ささやかながらかかわっていた頃でもあった。
40年も前の自著の「まえがき」を読むと、こんなことが書いてあった。
「自分の内面を見つめ、自己を語り、自己表現を試みることは自分が解放されるための最初の一歩なのだと気づくようになった。現実の私をふりかえると、相変わらずまだ専業主婦という、あいまいで矛盾に満ちた、場合によっては「犯罪的」とさえいえる存在にとどまったままである。自らが解放されないまま、反差別の視点に立とうとし、障害者解放や女性解放を願うのが逆立ちした考えであることは十分自覚している。だが、矛盾にみちた状況にあるからこそ見えてくるものもある。自己を対象化し、「身抜き」し、自分自身を解放していく作業こそが、これからの私の残り時間に課された緊急の課題なのだと実感する」。
「私は40歳になった時、女の人生が80歳まで生きられるとして、まだやっと折り返し点に着いたところじゃないかと思うと、なんかうれしくなった。私は生きているかぎり自分の思いで生きてみたい。残り時間はまだたっぷりあるから」と。
あら、もう到着点を過ぎてしまったじゃない。でも、まだ生きている。果たして、これまでの私の人生、納得のいく生き方をしてきたのかしらと、ちょっぴり気恥ずかしくなったけど。
結婚後10年、義母の看護のために千葉から京都へ自ら望んで移り住んだ。通院の道すがら、原一男監督「さようならCP」のビラが、ひらひらと舞い降りてきた。その上映会に小学3年生の娘を連れて京大講堂へ向かう。熱気溢れる蒸し暑い講堂の床に、汗をかいて寝そべる脳性マヒの重度障害者たち。それを見て娘は私の扇子でそっと彼らを扇いでいた。その日、私も娘もカルチャー・ショックを受けたのだと思う。その後、同志社大学「チャペルアワー」で出会った車椅子のT君の介護の支援を頼まれ、後に女性障害者Sさんの自立と結婚、子産みにもかかわることになっていく。
その頃はまだ街中で普通にあった、あからさまな差別意識に激しく憤る私に、付き添う障害者たちから「そんなに怒らんでもええやん」となだめられつつ、彼ら彼女らの地域での自立闘争にかかわっていった。
「青い芝の会」初代会長の横塚晃一さんは『歎異抄』の「よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」という言葉を好んで、よきひと(法然)を、ただ信ずる親鸞の思いに重ねて障害者と健常者との「心の共同体」を願ったという。障害者は「迷惑をかけていけばいいのだ」と言い切って。
1972年、1973年と二度に渡り、優生保護法改「正」案が、「経済的理由」の削除と「胎児条項」の追加を掲げて国会に上程され、障害者と女性たちの激しい反対運動によって、1974年、審議未了で廃案となる。再び、1982年、保守系議員からの「経済的理由を削除すべきだ」との意見で上程を試みたが、女性たちの反対運動の結果、1983年、時期尚早として上程を断念。しかしなぜ、1982年の改「正」案に10年前の「胎児条項」の追加がのぼらなかったのか。それは1976年から着々と進められてきた「母子保健法改悪」の中に「胎児条項」が組み込まれていたからだ。羊水チェックなど出生前検査の医学の進歩によって。
その後、1996年6月、「優生保護法」の一部改正による「母体保護法」が成立する。さまざまな課題を残し、その議論も十分に尽くされぬまま、「優生保護法」は「母体保護法」に改められることになって現在に至る。
「優生保護法改悪」をめぐる反対運動の中で、障害者解放運動と「産む・産まないは女の自由」を掲げる女性たちの運動との間に、ある種の軋轢も生まれてきた。それについて立岩真也さんは、女性たちの「リプロダクティヴ・フリーダム」(性と生殖に関する自由)という「女性の自己決定権」と、障害者の「生」を肯定する「障害者解放思想」のどちらにも正当性を共に認めたいと願いつつ、だが、答えは出されていない。
ではどんな答えがありうるのか? 障害者は「健常者幻想」から解き放たれ、「障害」からの解放ではなく、「差別」からの解放を求めて我々健常者を撃っていかなければならない。女性もまた女の立場から、「母性イデオロギー」に基づく国家による女のからだへの管理を阻止するのはもちろんのこと、あらゆる女性差別に対して真っ向から立ち向かっていかなければならない、私自身も含めて。
「個別に撃って、共に撃つ」闘いをこそ。
障害者も健常者も、女も男も、子どもも若者も高齢者も、ケアする人も、ケアされる人も、自分とは異なる「もうひとりの他者」を、よりよく知ることで共に生きる闘いを進めていかなければならないのではないか。さて、そこに答えはあるか?
そうすると今、私は、そんな思いで「個別に撃って、共に撃つ」闘いを、「もうひとりの新しい他者」との共生を願いつつ、あともう少し残りの余生を生き延びてゆきたいと願う日々を送っているのかな?









