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ヴァージニア・ウルフを撮った女性写真家――私的ジゼル・フロイント展    田丸理砂

2014.01.01 Wed

(以下で紹介する本のとくに表紙に注目してください。最後の本を除いて、すべてジゼル・フロイントの写真です!)

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. ヴァージニア・ウルフは、1939年6月26日付の友人ヴィクトリア・オカンポに宛てた手紙のなかで、彼女が断りもなしに写真家ジゼル・フロイントを連れてきて、ポートレート撮影をさせたことを非難している。ウルフが写真を撮られることが嫌いなのを知っているのに、しかも人前では失礼な態度も取れないではないから、撮られるがままになっていたというのだ。ヴィクトリア・オカンポは、アルゼンチンの作家であり、雑誌『スール』の主宰者で、アルゼンチンでのウルフの作品の紹介者だった。またこの撮影を巡っては後のウルフの作品の解説者のなかには、フロイントがウルフを「凌辱した」と指摘する声もあったという。

 一方、フロイントによるヴァージョンはこうだ。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 1939年6月23日、わたしがヴァージニアに作家のカラー・ポートレートを見せると、彼女は、翌日、私の写真を撮りにいらっしゃい、と招待してくれた。当時、カラーフィルムは技術的に光度が弱く、締め切った空間でスナップショットを撮ることはできなかった。それゆえわたしにはモデルの協力が必要だった。みなさんもお気づきかと思いますが、わたしがここで発表した写真のヴァージニア・ウルフは、一枚ごとに別な服を着ています。彼女みずからが服を着替えることを提案したのです*。「ひょっとしたらカラーフィルムにはこっちではなく別の服の方が写真うつりがいいかもしれないし」と。こんなふうに撮影がうまくいくように力を注いでいた人が「凌辱された」気分だったと、みなさんは本当に思われますか。

*上下2枚のウルフの写真はこの時に撮られたもので、写真が小さくてわかりにくいかもしれないが、ブラウスの襟を注目して見ると、なるほど違う服のようである。

 1908年ベルリンの裕福なユダヤ系一家に生まれたジゼル・フロイントは、高校卒業のお祝いに父から貰ったライカで写真を撮り始める。写真の専門教育を受けたことはないが、1930年からフランクフルト大学の社会研究所で学び、政治的関心も高かった彼女は、当時の社会研究所の様子、またナチ政権誕生直前のメーデー、1932年5月1日、フランクフルトで行われたアンチファシストのデモの様子を写真に収めている。フランクフルト市庁舎前の広場を埋め尽くす人々、ヒトラー敬礼をする者たち、右派の学生たちの行進、それを見守る警官たちなどを捉えたこれらの写真は、当時の緊張感を伝えている。1933年5月末、逮捕が近いと聞いたフロイントは、かつて留学していたパリへと逃げる。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. パリでフロイントの支えとなったのは、書店「本の友の家」の店主アドリエンヌ・モニエである。モニエと「本の友の家」の斜め向かいの書店、英語の本を専門に扱う「シェイクスピア・アンド・カンパニー」の店主シルヴィア・ビーチとの親密な関係は知られているが、フロイントはいわばその二人のあいだに入り込んだ。フランスの作家たちからの信頼の厚いモニエとパリの英語圏作家と関係の深いビーチの仲介で、フロイントの名を有名にした、さまざまな作家や芸術家の写真が誕生している。コレット、ポール・ヴァレリー、ロマン・ロラン、アンドレ・ジイド等々、そしてなかでもよく知られているのは、ヴァルター・ベンヤミンと、ジェイムズ・ジョイスのカラー・ポートレートだろう。『タイム』誌から表紙用のジョイスの写真の依頼を受けたフロイントに、ビーチは次のようにアドヴァイスしたという。

 ジョイスはとても迷信深い人だった。わたしが彼のカラー写真を撮影できたのは、この事情のおかげだ。……ジョイスは実際とても迷信深かった。シルヴィア・ビーチはそれを知っていて、こうアドヴァイスしたのだった。わたしの夫の名(*フロイントはモニエのいとこと、実体は伴わない、紙の上の結婚をしていた)が、『ユリシーズ』の登場人物のひとりと同じだと手紙に記すべきだと。わたしはこのアドヴァイスに従うと、ジョイスからすぐに承諾を得た。もう一度わたしのために(**1938年フロイントは『ライフ』にジョイスの白黒ルポルタージュを掲載)、それもカラー写真の撮影に同意してくれたのだ。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.  こうしてフロイントは「私の眼は強い光に耐えきれない」というジョイスから同意を取り付け、首尾よく撮影を終える。もちろんこれはビーチの力添えなしには考えられない。ビーチが英語圏で出版できずにいたジョイスの『ユリシーズ』の出版に尽力したことはよく知られている。ついでに言うと、その後のジョイスの彼女への冷たい仕打ちも…。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. それに対しベンヤミンとフロイントの関係はもっと私的なものである。フロイントはベルリン時代からベンヤミンのことは知っていたが畏れ多くて話しかけることはなかったという。ふたりとも亡命者となってパリに滞在しているときに、毎日のように通う図書館で顔を突き合わせているうちに、親しい友人となっていった。フロイントはその頃、フランスの写真をテーマとした博士論文を準備していた。1935年、彼女はソルボンヌ大学に「19世紀フランスの写真――社会芸術論」を提出する。当時、写真の社会学的分析はほとんど試みられておらず、フロイントの写真論はその先駆的論考であった。口頭試問にはアドリエンヌ・モニエとヴァルター・ベンヤミンも同席していた。

 1940年6月、パリはドイツ軍に占領される。ユダヤ系であるジゼル・フロイントはモニエらパリの友人たちの忠告を受け、南フランスへと出発する。アドリエンヌ・モニエは「午前7時40分、オステルリッツ駅からジゼルの出発。5時起床。警報5時10分。駅から徒歩で、サント・ジュヌヴィエーヴの正面を通り、帰宅」(『パリは女』229頁)と記している。

 南フランスに逃れたフロイントは、1941年、冒頭で触れたヴィクトリア・オカンポの支援を得て、アルゼンチンに亡命する。オカンポはまたアルゼンチンの資産家で多くの芸術家たちのメセナだった。

 アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

 フロイントがアルゼンチンの後、メキシコ時代を経てパリに戻ってくるのは1952年のことである(1946年に一時的に滞在している。左下のボーヴォワールの写真はその際撮影されたものだ)。そして1957年、複雑な思いを抱いてベルリンを再訪する。

(左は1950年代、メキシコ時代のフロイントのセルフポートレート)

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 

 アルゼンチン時代、フロイントはオカンポの周りの芸術家たちのポートレートを撮影し、またパタゴニア地方を旅行し、写真に収めている。彼女を有名にしたのは作家や芸術家のポートレートだったが、社会的関心も高かったフロイントはポートレート専門の写真家と見られることを好まなかったようだ。そして彼女はまた1947年にロバート・キャパらに設立された報道写真エージェント、マグナムの初期メンバーでもあった。ただし1930年代パリ時代以前、以降のフロイントについては、また別な機会にお話しできればと思う。

 なお著作権のこともあり、写真集からフロイントの写真を提示するのは難しいので、ここでは「私的ジゼル・フロイント展」とし、フロイントの写真が表紙に使用されている本を紹介しました(以下の『パリは女』を除いて)。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. ところで1920年代、30年代のパリの女性たちの繋がりを知るには、アンドレア・ワイス著(伊藤明子訳)『パリは女 セーヌ左岸の肖像』がおススメである。アドリエンヌ・モニエ、ジゼル・フロイント、シルヴィア・ビーチも登場するほか、ガートルード・スタイン、ジャネット・フラナー、ジューナ・バーンズと盛りだくさんです。








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