2011.02.08 Tue
映画は、自分の半裸体を、いろいろな角度から携帯写真でとる女主人公、ルナの様子から始まり、その後映像はいきなり爆音を轟かせる飛行機内で、客室乗務員として働くルナに切り替わる。 テキパキと仕事をこなすルナ。自分の裸体に興味を持ち、セックスを楽しみ「近代的な」職業である客室乗務員に関わる主人公は、20年近くに及んだボスニア内戦が終結し、そのサラエボで恋人、アマルと同居している近代女性を象徴するかのようである。彼女は非婚のまま妊娠を望み、イスラムの国で、けっこう肌をみせたドレスを着て、ディスコに別のカップルの友人、シェイラ達と出かけたりする。
内戦で母を亡くしたルナは、よく祖母を訪ね労わる、かっこいいステキな女性である。内戦によるトラウマを抱えたアマルは、アルコール依存症になっており、職場での飲酒を同僚に知られ、空港管制塔での仕事を停止される。人工授精を考えるよう医師に告げられることに加えて、ここから、二人の関係には暗雲が立ち込めていく。アマルはかつての戦友に、仕事があると誘われ、イスラム原理主義のコミューンに発っていくのである。連絡がとれなくなったルナは、そこを訪ね、帰るように頼むが、アマルは聞き入れない。
このコミューンは、原理主義の戒律にもとずく、祈りを基本にした自給自足的暮らしで、
ルナを送迎したナジャは、女性の義務は出産であり、女性が「伝統的役割」から離れていくことを批判するのだ。ルナはコミューンの価値観が自分には合わないということを自覚する。
一方アマルは、そこで、自分が癒されていくことを知る。戻っても結婚するまでセックスはしない、子どもも作らないと主張し、熱心にモスクに通い始めるアマルは別人になったかのよう。なんとかアマルを理解しようと苦悩するルナだが、二人は、どんどん疎遠になっていく。イスラムの結婚式に出たルナに、それが一夫多妻制の、2番目の妻となる式であることを知るという決定的出来事が起きる。「本人が合意しているからいいじゃないか」と言うアマル。
ある夜、ルナはディスコで酔っ払い、友人、シェイラとサラエボの街をさ迷い歩き、自分にも封印してきた内戦のトラウマがあることを自覚する。すでに未知の人々が住んでいる旧家を訪れたルナは、そこでさめざめと涙を流す。
しかしルナは、そこで立ち止まらない。アマルとの関係をほとんど諦めかけた時、 思いもかけず、妊娠がわかる。それを告げると、アマルは「帰ってくれ」と叫び、「帰ってくるのはあなたよ」と叫び返して、ルナは立ち去っていくのであるおそらくシングルマザーを決意しつつ……。
仕事、子ども、家庭、そして男との関係という古くて新らしく、かつ全世界の女性の共通課題が、非常にオーソドックスなスタンスで取り上げられ、共感を誘う。ルナの友人、シェイラは、ルナがうんざりするほどパートナーとの口論を繰り返すが、ルナには絶えず寄り添い、彼女の苦悩を理解し、支えようとするのである。女の友情もしっかり描かれている。
ジュバニッチ監督は、「サラエボの花」という作品で、2006年「ベルリン国際映画祭金熊賞」を受賞した、36歳の新進気鋭の女性監督である。彼女はインタビューで、悩みながらしっかりと生きていくルナや戦争の後遺症に苦しみながらも、なんとかルナとうまくやっていこうとするアマルの二人の関係性や宗教問題にも目を向けたと言っている。インタビューでの監督には、フェミニズム的な言辞が皆無だが、内容的には「古くて新しい女性のテーマ」をある程度は意識していたと思わざるをえない。
私はこの映画を充分にフェミニズムの映画だと言いたいところである。
最後に私事を。1970年の初め、私は当時暮らしていた米国から、旧ユーゴスラビアを訪れた。案内のガイドは、「6つの民族、言語、文化が共栄している国」であることを誇らしげに述べていたのを記憶している。そしてアドリア海の真珠といわれるデュボルブニックの美しかったこと。 それらが内戦で崩壊したことを聞かされたときはこころが痛んだものだ。
映像のなかの復興した街に、私の記憶に留めたものは何もなかった。その復興なった街の「新しい」ルナをそっとハグしてあげたい……。
2011年2月19日から岩波ホール他にて、全国順次ロードショー
監督・脚本 ヤスミラ・ジュバニッチ
カテゴリー:新作映画評・エッセイ
タグ:憲法・平和 / 女性監督 / 民族主義 / ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・オーストリア・ドイツ・クロアチア映画 / ヤスミラ・ジュバニッチ