潮の道を祝島へ
 西瀬戸内海を船で渡る——。いつか果たしたい夢だった。叶うなら鞆(とも)の浦から祝島(いわいしま)へ。

 太平洋から豊後(ぶんご)水道を通って伊予灘(いよなだ)へ向かう海流と、紀伊水道を経て播磨灘へ向かう海流は、鞆の浦でぶつかる。満ち潮のときは潮満ちる頂点、引き潮ならば東・西瀬戸内海の分水嶺———鞆の浦は瀬戸内の海流の満ち引きの中心にあたる。

 瀬戸内の海とともに生きた人びとは古来、風や潮に通じ、それを生かして移動した。風待ちや潮待ちの港が点在することからもわかる。干満差を利用して瀬戸内海を渡る船が鞆の浦の先へ進むに適した潮を、待つのが常だったことだろう。だからこそ鞆は要港として栄えた。

 ただ、私の理解と想像力は「風待ち」には僅かに及んだとしても「潮待ち」には及ばない。数年前まで「潮」を見たこともなかった。「潮が見えるじゃろ」と言われても、見えない。伊予灘と周防(すおう)灘の境に浮かぶ祝島で、漁師さんの船で沖にでて同じ海面を見ていても。

 潮とは何か? 「潮待ち」というけれど、何を、なぜ待つのか? 凪の祝島沖へ出て釣り糸を垂らすことを少しずつ重ね、今では私の目でも潮が少し見えるようにはなった。けれどまだ掴めない。

 

 鞆の浦から祝島へ、潮の道を船で渡ってみたい。私はそう願うようになっていた。そのルートには瀬戸内海の有力な海賊衆・村上氏が根拠とした島々も浮かぶ。村上氏とは、能島(のしま)村上氏・来島(くるしま)村上氏・因島(いんのしま)村上氏のこと。三島(さんとう)村上氏とも、三島村上水軍とも呼ばれる。

 三千余の島が点在する瀬戸内海。荒い風波や速い流れのため航海の難しい「灘」と、無数の島々から成る「諸島」が交互に続く。灘と灘の境に、干満差の大きい海峡すなわち瀬戸がある。島と島を結び、灘へと通じる水道だ。潮流が速く海底は岩礁が多いため渦潮が発生し、昔から海上交通の難所とされる。そこの島々に要港ができ、海賊衆が拠点とする海城(うみじろ)も設けられたと聞く。

 日本で海賊といえば、海上の警固・軍事・物流などで実力をもっていた人びとを指す。海の領主・海の武士団・水軍などの呼び名もあり、荘園の代官を務めることも珍しくなかったそうだ。古来、海上交通の要衝だったと伝わる祝島もまた、海賊衆の地だったのではないかと私は推測する(拙著『原発をつくらせない人びと』2章に詳しい)。

 鞆の浦から祝島へ海路を行けば、陸の視点では単なる小島にも見えかねないかつての海城の、さらには祝島の地理的立ち位置が浮き彫りになるかもしれない。祝島の海・山・人、そして34年目の原発計画の実相も、浮かびあがるような気がした。

原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ (岩波新書)

著者:山秋 真

岩波書店( 2012-12-21 )

弓削島発ヨットの旅
 夢は急に実現した。2015年11月、東京湾の一角を占める三浦半島から、祝島へ向かう一隻のヨットがあった。舵を操るのはプロダイバーの武本匡弘さん。何十年も海で働くベテランだ。ひょっとして鞆の浦から乗船が叶えばありがたい。思い切ってそう相談したところ、快諾いただいた。

 満つれば虧(か)く。鞆の浦発とはならなかった。航海は海況次第。合流するはずだった日は広島県の尾道で待機し、翌日、弓削島(ゆげしま)で合流した。それはそれで、むしろ興奮した。やはり訪れてみたい島だったのだ。

 芸予諸島のほぼ北東端に位置する弓削島は、中世から天皇家や大寺院の荘園として栄えた。ただ現在は、不案内な者にとって行きづらい。私自身、しまなみ海道を定期船や貸自転車や徒歩で渡ったとき、弓削島へも行きたいと行程を考えたが果たせなかった。しまなみ海道とは、広島県尾道市と愛媛県今治市を、島々に橋を架けてつなぐ全長約60kmのルートだ。

 弓削島では、港近くの公共施設で企画展「東寺百合文書と弓削島荘」を開催中だった。東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)は、京都の東寺に伝えられた、8世紀から約千年にわたる膨大な古文書群。なかでも中世の文書は日本屈指の量といわれ、鎌倉時代に東寺領となった弓削島荘の記録も多い。もとより国宝だが、2015年10月にユネスコ世界記憶遺産に登録されての記念展だった。

 初上陸してみたら弓削島の肝を特別展示中とは…。磁力のある島なのか、縁が深いのか。ヨットの到着を待ちつつ私は展示に見入った。弓削島は塩の荘園。塩は船で大阪へ、そこから淀川を遡って京都へと運ばれていたという。

 翌朝、しんと静まる島にエンジン音を響かせ、ヨットは弓削港を出発した。空に雲はまばらで、まだ日の出前だが今日は晴れそうだ。しばらくすると向こうの島影から日が昇った。伯方島(はかたじま)を右手に見つつ南西へ向かう。風や波は穏やかで、順調な出だしだった。

 午前7時半ころ、進行方向に見える大島(おおしま)の山腹に、石切り場らしきものを目視できた。島の名を冠した大島石は国会議事堂にも使われ、石材の島として知られる。

 ヨットはしばらく直進したが、途中で右すなわち西へ旋回した。伯方島の南岸を西行するのか。このルートは、燧(ひうち)灘から斎(いつき)灘へ芸予(げいよ)諸島を東西に行く最短距離で、大阪−九州を結ぶ最短航路とされる。

 ということは、日本三大急潮流のひとつで昔から最大の海の難所といわれる来島海峡は通らない。ただ、伯方島と鵜島(うしま)のあいだの船折(ふなおり)瀬戸を通ることになる。名のとおり船を折るほどの急流が抜ける、やはり海の難所だった。

能島と来島
 ヨットはその瀬戸へ向かってゆく。海は凪いでいた。漁船が数隻、静かに仕事をしている。あたりの海面に動きが見えはじめた。波ではない。定まらない繊細な模様が次々に現れる。潮だ。

 鵜島近くの岩礁に赤い灯台が立っていた。そこを旋回し、ヨットは船折瀬戸へ入っていく。一瞬、赤灯台近くの海がベタ凪ぎに見えた。青い空と白い雲を鏡のように映す。そこに、僅かに窪んだ筋が無数に見えはじめた。筋は揺れながら曲線や直線や円を成している。進むほどに円が増え、窪みが深まる。渦潮だった。

 辺り一面、潮が大小の渦を巻いていた。轟々(ごうごう)と川が流れるような音も聞こえる。潮流の流れる音だという。海の底から円形の模様が無数に湧いてくる。激しい海流が海底の岩礁にあたり、海面に湧きあがってくるように見えるのだという。湧き潮と呼ぶらしい。

 「船が止まっているな」
 海面で渦巻く潮を見やりつつ、操舵席の武本さんがそう言った。ここの海流はいま、船の進行方向とは逆の方向へと流れている。向かい潮だ。船の速度より潮の速度の方が速ければ、船は前へ進めない。前方の大島大橋の下から、大型タンカーがこちらへ向かってくるのが見えた。「引き返そう」。武本さんはそう言ってヨットをUターンさせた。

 

そこから少し先に、能島が浮かぶ。三島村上氏の惣領格という能島村上氏が何故、周囲1kmに満たない島に海城を築き拠点としたか。初めて腑に落ちた。

 伯方島と大島のあいだを航行するには、海峡を塞ぐように浮かぶ鵜島の、北か南を進むほかない。北を行けば船折瀬戸がある。南を行けば、広くはない海面を陣取るように、能島が浮かぶ。この島は三方を瀬戸と浅瀬に囲まれ、少し離れた北には船折瀬戸を擁する。最大10ノット(時速約19km)にもなる複雑な潮流と地形とを熟知し操船技術に長けないと、進むに進めなかったり浅瀬に乗りあげたり。瀬戸の潮が、能島城の堀であり砦なのだ。この天然の要害は、海上の往来に目を光らすのに打ってつけだったに違いない。

 船折瀬戸を引き返したあと、ヨットは大島の東岸を南下し、四国の今治沖で小さな島の脇に錨(いかり)を下ろした。来島海峡は目下、祝島を目指すには向かい潮だった。約1時間後に潮流は最速の7ノットになる。5〜6ノットで航行するヨットだと前進どころか後ろへ戻される。だが4時間ほど待てば潮は流れる方向を変え、向かい潮から追い潮になる。その際、潮が一刻止まる。その機に海峡を通り抜ける、ということだった。

 満潮の上げ潮時には潮流の速さが約12ノットにも達する上、八幡渦(はちまんうず)と呼ばれる渦潮も発生するという来島海峡。その手前で、初の潮待ちになったのだ。空は青く晴れ渡り、暖かな陽射しが甲板に注ぐ。緑の森を白い砂浜と岩場で縁どる目の前の島から、鳥のさえずりが聞こえる。束の間のリゾート気分を味わった。

 2時間ほどすると錨をあげ、ゆっくりと移動を再開。いよいよ来島海峡へ向かう。船長は乗員4人を2人ずつ分け、船首と船尾に配置した。船体のバランスをとるためだ。青空を覆い隠すように灰色の雲が一面に広がり、やや向かい風が吹いていた。私はタケノコのように幾重にも防寒具を着込み、船首の甲板に座った。 

 来島海峡大橋の今治寄りの端をくぐり、小島と来島のあいだの来島瀬戸を通過。潮が止まっている影響か、移動再開から1時間半かかったが、潮には難儀せず済んだ。ところで、ここの「小島」は島の名だが、来島より数倍も大きい。来島村上氏が拠点を置いた島は、能島同様とても小さいのだ。だが来島城の本丸跡(写真)からは、約4km幅の海峡の往来を一望できる。やはり納得の立地だった。

 少しずつ雲が散って陽光が戻った。波も穏やかだ。沖合を三頭のイルカが泳いでいる。いつしか私は、船首の甲板の上でうたた寝をしていた。難所を越えた安堵だろうか。

長島と祝島と姫島と
 ヨットで迎える二日目の朝は、忽那(くつな)諸島の中島港で目覚めた。ここ中島は奈良時代から法隆寺の荘園として栄え、その後は忽那水軍が本拠地を置いたという。

 港を出ると「ヒューッ」という音を立て、風が一気に吹きはじめた。しばらく進むと、潮が轟々と音を立て始めた。海面が波立つ。二神島(ふたがみじま)の方へ追い波が流れている。川のようだ。釣島水道に差し掛かったのだ。

 7時頃、四国は松山方面から陽が昇る。おあつらえ向きの風が吹きはじめ、武本さんは帆をあげた。鮮やかな青空に白が映える。
 左前方に上関町の八島が、右前方に上関大橋が視界に入った。この橋で本州とつながる長島を、この角度から初めて見る。なるほど長島は、横に長い島なのだ。その島の、本州から一番遠い端が上関原発の予定地・田ノ浦である。その約4km対岸に浮かぶ祝島が、この航海の目的地だった。

 遂に海の彼方に、伊予灘と周防灘の境に浮かぶ祝島の影を捉えた。遥か彼方に、九州は国東半島の姫島もうっすら見える。

この海で数年前は
 陽はすでに高い。風も止み、洋上はTシャツで丁度いい。穏やかな海面に光がきらめく。この同じ海域で、約6年前から激しい紛争が続き、約5年前には海戦のような衝突が起きていた。この海の埋め立てをめぐってである。

 その渦中の船上取材で、風雨のなか抗う祝島の漁師さんが「かろうじて潮がええ」と言った言葉を聞かなかったなら、私はいまも潮を見ずにいたかもしれない。

 当時の様子は前著やこちら などで既に報告したが、今回は私の記録用から動画を少し公開しよう。  

 祝島を中心とする人びとが、数年前この海で目にしていた光景。いま沖縄の辺野古で、似た光景が見られると聞く。繰り返していいのか。どうしたら止められるか。次回からは、辺野古はもちろん津々浦々に通底する問いを抱えつつ、祝島と海山人そして終われない原発計画を、ここ数年の取材をもとに報告していきたい。