中絶(人工妊娠中絶)は、複雑で、語るのが難しいテーマだ。あるときには、これでわたしの人生が救われた!と大きな安堵感をもたらす経験でありうるし、またあるときには、たとえば旧優生保護法下で障害や病気を理由に不妊手術や中絶手術を強いられた人々のように、その人の存在価値自体を否定し貶めるために使われる凶器にもなる。人によって、状況によって、中絶という経験の受けとめ方は千差万別と言ってよいほどさまざまだ。
 本書の中核(第Ⅱ部、第Ⅲ部)をなすのは、当事者の女性、あるいは当事者女性たちをそばで見てきた人々による、そうした多様で多面的な中絶という経験についての語りや証言である。サブタイトルには「38の異なる経験」とあるが、実際にはもっと多くの女性たちの経験が語られていて、一つとして同じものはない。編者の大橋由香子さんが「おわりに」で書いているように、「ほんとうにいろいろな、様々な、誰とも違う、その人だけの経験がある」ことがよくわかる。もう一人の編者、石原燃さんも、本書がこうしたさまざまな人の経験集という形をとったのは、「その人固有の、他の誰とも違う経験に光をあて、それをひとつひとつ折り重ねることで、中絶の複雑な実相を浮かび上がらせることができるかもしれない」と考えたからだと述べていて、その意図は成功している。
 一方、本書の第Ⅰ部では大橋さんが「中絶をめぐる長いお話」を書いていて、中絶という問題の歴史的・社会的背景を理解するのにとても役に立つ。そもそも日本では、刑法堕胎罪のもとで中絶は本来は犯罪なのだが、母体保護法(旧優生保護法)によって一定の条件を満たせば違法性が阻却される(罪に問われない)ことになっている。どういう状況のもとでこの法律が作られ、その後、中絶を規制しようとする勢力と女性たちとの間でどのような攻防がくり返され、それを通してどのように中絶という選択肢が守られてきたのか、こうした歴史は若い世代の人たちにぜひ知っておいてほしい情報だ。巻末の「中絶に関する書籍・作品リスト」も充実していて、中絶を扱った映画や演劇もリストアップされている。
 こうした歴史を経て現在の日本では、中絶を選ぶことは一応法的に認められてはいる。だが実際には、配偶者同意の必要や高い費用負担、旧態依然とした中絶技術、あるいは経口中絶薬の認可の遅れや利用しにくさ等々、さまざまな障害や困難が中絶を選ぼうとする女性たちの前に立ちはだかっている。本書に集められた女性たちの経験談は、まさにそうした多くの問題についての当事者サイドからの貴重な証言集でもある。中絶にかんして何が問題なのか、何が変わる必要があるのか。石原さんが「はじめに」で書いているように、当事者が語ることでようやくそれらが具体的に見えてくるのだ。
 「経験を語るということは、奪われた声を取り戻すということだ。/医療制度や法律を考えるとき、いつも現実離れした紋切り型なイメージがそこにあり、当事者の声がかき消されている。それは声を奪われているということで、それを取り戻さなくては、わたしたちが自分の身体に主体的に関わることはできない。」


◆書誌データ
書名 :わたしたちの中絶 38の異なる経験
著者 :石原燃・大橋由香子
頁数 :408頁
刊行日:2024/12/16
出版社:明石書店
定価 :2970円(税込)

わたしたちの中絶 ――38の異なる経験

著者:石原 燃

明石書店( 2024/12/16 )