
NHKラジオ「朗読の世界」(夜9時15分~30分)の須賀敦子『ミラノ霧の風景』(全20回)が、3月21日に終わった。その余韻にひたりながら、30年近く前に訪れたイタリア旅行、ローマ~フィレンツェ~ヴェネツィア~ミラノへ。その後のイスタンブール~マルタ~南イタリア・シシリア島をめぐる旅を思い出す。そして須賀敦子の本の深い森の中へと魅せられて誘われてゆく。
確か須賀敦子の本は何冊か手元にあったはず、と本棚を見たら、あった、あった。デビュー作『ミラノ霧の風景』(白水社、1990年)、『ヴェネツィアの宿』(文藝春秋、1993年10月)、『遠い朝の本たち』(ちくま書房、1998年4月)、『本に読まれて』(中央公論社、1998年9月)などを再読する。何度読んでも初めて読むような新鮮さがある。なめらかで途切れのない文章と知的で奥深い語り口に、もう、ため息が出る作品ばかりだ。
須賀敦子は1953年、24歳でパリ大学へ留学。1954年の夏休み、イタリア・ペルージャでイタリア語を学ぶ。1955年、一旦、日本へ帰国するが、1958年、再び28歳でイタリアへ向かう。1960年、後に夫となるジュゼッペ・リッカ(通称ペッピーノ)と知り合い、翌年に結婚。だが、1967年、ペッピーノは41歳で急逝する。20~30代をイタリアで過ごした須賀敦子は、夫のすすめで日本文学のイタリア語訳に取り組む。夫の死から4年後の1971年に日本へ帰国。その後は大学講師の傍ら翻訳者として、また随筆家として活躍。50代後半の初めての本『ミラノ霧の風景』が女流文学賞を受賞する。その後、1998年、69歳で亡くなるまで次々と作品が生み出されてゆく。遅すぎたデビューと早すぎる死と。ああ、老年期の須賀敦子の文章を、もっともっと読んでみたかったのに。
以前、須賀敦子の『本に読まれて』にふれてエッセイを書いた。「書評でもなく、エッセイでもなく」書かれた過去の思い出や日常の出来事、あるいは本格的な本の思想から入っていき、やがて本の森の中へと分け入っていく喜びを語り、幅広い教養が次々と展開されて、読んで、とっても心地よい本だった。この本は彼女の死から半年後に出版された。(『本に読まれて』に、誘われて(旅は道草・116)。
『ミラノ霧の風景』の「ナポリを見て死ね」の章では、1936年、父親が洋行の旅先から小学1年の娘に送ってきた絵はがきに「ナポリを見て死ね、という言葉があります」と書かれてあったことや、読書家の父親に影響を受けた父との思い出が綴られる。「マリア・ボットーニの長い旅」の章では、1953年、日本郵船の貨物船「平安丸」でジェノヴァに入港し、パリに向かう須賀さんを迎えてくれたマリア・ボットーニのことを書く。そして晩年、日本を訪れたマリアとの再会と、その後の別れが味わい深く語られる。さらにミラノのボンピアーニ出版社の編集者たちのことを書く「セルジョ・モランドの友人たち」の章も、みんな一人ひとり目の前に立ち現れてくるかのような肌感覚で人物が描かれてゆく。まるでシネマのようだ。なのに、夫のペッピーノのことは、あまり出てこない。須賀敦子にとって夫の死は、どうしても受け入れられないことだったのかもしれない。そして本書の「あとがき」に「ミラノの霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる」と書いている。
1991年、本書が女流文学賞を受賞した際の審査員でもあった大庭みな子は、巻末の「解説」に、こう書いている。「古来女性は語り伝えられてきた話を次の世代に語り伝える才能に恵まれていると思う。あらゆる風景の中に行き来する人々の影は生きている人々から伝わってくるものなのだ。それを須賀さんが口移しに、呟き直している。だからそれらの風景は生きて動いているのだろう」と。女の文章は、語るように呟くように書かれてゆく。だから、そこに描かれた人々の姿は読む者に鮮やかに蘇ってくるのだ。そんな文章がいいなあ。
須賀敦子が十数年間、住んだイタリアの街へ、1996年の夏、私も初のヨーロッパ旅行に、ローマ~フィレンツェ~ヴェネツィア~ミラノ~へと向かった。
ローマの初日は映画「終着駅」のテルミニ駅近くに安宿をとり、真っ先にハリウッド映画「ローマの休日」(1953年)の舞台「スペイン広場」へと向かう。アメリカ人記者ジョー(グレゴリー・ペック)と某国の王女アン(オードリー・ヘプバーン)が、Vespaのバイクに乗ってローマ市内を駆けめぐるシーンに憧れて。この映画をどうしても見たかった母は、小学生の私を連れて和歌山に近い大阪南の淡輪から大阪難波スバル座へ出かけていった。ストーリーもよくわからず、スクリーンに写るローマの街を「いいなあ」と眺めていた私。この映画は白黒だったけど、その後、総天然色のハリウッド映画を母は何度も見につれていってくれた。とってもきれいな女優さんたちが、いっぱいいたよ。イングリッド・バーグマン、キャサリン・ヘプバーン、ジョーン・フォンテイン、エリザベス・テイラー、グレース・ケリー等々、今でもよく覚えている。
ローマからIntercityで2時間、フィレンツェへ。アルノ川にかかるポンテ・ヴェッキオ橋から歩いて少しのFerragamo本店の隣の宿。ブランドに興味はないけど、シンプルでおしゃれなショーウィンドウがステキ。ウフィツィ美術館では、レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」、ミケランジェロ「聖家族」、ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」など、ルネサンス美術を堪能する。
ほんとは海から入らないといけないヴェネツィアだけど、列車でサンタ・ルチーア駅へ。カナル・グランデを橋で結ぶ島は車が通れないからネコたちの天国だ。呼ぶと「ニャア」と近づいてきてスッと腕に抱かれる。ゴンドラに揺られてムラーノ島へ。見かけたハンサムな海軍士官に「写真を1枚撮らせてもらってもいいですか?」「Prego」(どうぞ)と言って、彼は運河を背景にポーズをとってくれた。
ヴェネツィア運河沿いのホテル

ヴェネツィア、ムラーノ島のネコ
ミラノ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世通り
北イタリア・ロンバルディアの州都ミラノの中央駅は、ムッソリーニのファシズム時代に建てられた壮大な駅舎。鉄とガラスを組み立てたドームは長さ72m、高さ36mもあるとか。イタリア最大ゴシック建築ドゥオーモやヴィットーリオ・エマヌエーレ二世ガッレリアのショッピングモールをぶらつくが、その日、ミラノは国際見本市と重なってホテルはどこも満室。シャワーもない屋根裏部屋を、ようやくとれた。
当時はまだ飛行機のReconfirm(リコンファーム)が必要だった頃。アリタリア航空に電話しても、ずっとお話し中。ガリバルディ駅近くの本社へ行くと、受付嬢はおしゃべりに余念がない。でもそのおかげで駅近くの、いいお店にめぐり合えた。「Trattoria della Pesa」。北イタリア風バター味のリゾットが、とびきりおいしい。ふと壁を見るとホー・チ・ミンの写真がある。店主に尋ねると、「ホー・チ・ミンがフランス共産党に亡命した頃、この店で匿っていたことがあるよ」と。1969年のホー・チ・ミンの死と1975年のサイゴン陥落とベトナム戦争終結。2025年の今年は、あれからもう50年になるんだ。
ミラノ・ドゥオーモ
ミラノ、Trattoria della Pesa
2007年、イスタンブール~マルタ~シチリアン・ブルーが眩しい南イタリアのシシリア島へ向かう。地中海の向こうは、もうアフリカ大陸だ。インタンブールから夜中の3時に車を走らせ、早朝発の飛行機でマルタヘ飛ぶ。「バスの王国」マルタの湾岸をぐるりと回って地中海を満喫する。マルタからシシリア・カターニャ空港へはプロペラ機で1時間。映画「グラン・ブルー」のロケ地タオルミーナは、カターニャからイタリア国鉄(FS)で1時間。今も噴火するエトナ山を車窓から眺め、窓からはオレンジの香りが漂ってくる。シシリアのお店は「バカンスでお休み」の札ばかり。「シエスタ」で昼休みもたっぷりとる。カウンターでピザを食べていたら、隣のおばさんが何かと話しかけてくる。南イタリアは、ほんとに、のどかで明るい。
もう一冊、須賀敦子『ヴェネツィアの宿』の「オリエント・エクスプレス」の章が味わい深い。「ヨーロッパに行ったらオリエント・エクスプレスに乗れよ」と、初めてフランスに留学することが決まった娘に父親が言ったという。1936年、父がパリからシンプロン峠を超えてイスタンブールまで旅した「オリエント・エクスプレス」で味わったコーヒー・カップを持って帰ってほしいと、死を前に父は人づてに娘に伝える。ミラノ駅に着いた「オリエント・エクスプレス」の車掌長に頼んでデミ・カップを譲ってもらった須賀さんは、それを日本に持ち帰り、羽田から病院へ直行する。父は、ため息のような声で「それでオリエント・エクスプレスは?」と尋ねた。そのカップを、そっとベッドに置く。そしてその翌日、父は亡くなったと、結びに書かれていた。
オリエント・エクスプレス
私も偶然、「オリエント・エクスプレス」に遭遇した。イスタンブール・スィルケジ駅近くの安宿で一服していたら、突如、向田邦子の「阿修羅の如く」のテーマ曲がバンド演奏で鳴り響いてきた。窓から見るとスィルケジ駅に「オリエント・エクスプレス」が、しずしずと入ってくるではないか。アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』の終着駅へ。それも年一回運行の、その日に遭遇したのだ。慌てて走って駅構内にもぐり込む。1977年、ワゴン・リ社の事業撤退後、1982年、ベニス・シンプロンOEが運行を復活したという「オリエント・エクスプレス」から、長旅を終えた貴婦人たちが降り立った。私もスルタン風の車掌と並んで写真を撮ってもらう。これも旅の思い出のひとつ。
そしてもう一冊、須賀さんは『遠い朝の本たち』で、アン・モロウ・リンドバーグのエッセイについて触れている。アン・モロウ・リンドバーグは、1927年、ニューヨークの飛行場をプロペラ機「スピリット・オブ・セントルイス号」で飛び立ち、33時間後パリに到着して、初の大西洋横断の単独無着陸飛行をなし遂げた飛行家チャールズ・リンドバーグの妻。女性飛行家でもあり、エッセイストでもある。後に夫・チャールズは『翼よ、あれがパリの灯だ』を書いている。
1931年、アンとチャールズはアメリカから北廻りで「東洋」へのルートを探る途中、千島列島の海辺の葦の茂みに不時着する。やがて救出されて東京で熱烈な歓迎を受け、横浜から船で出発する時、見送る日本の人々の「さようなら」という言葉が、「そうならねばならぬものなら」という意味だと、後になって知ったアンは、「なんという美しいあきらめの表現なのだろう」と思ったという。翌1932年、アンとチャールズは1歳半の長男チャーリーを子ども部屋から攫われて惨殺されるという悲しい事件に見舞われる。アンにとって「別れ」という言葉が、「神とともに」から「そうならねばならぬものなら」という「さようなら」という諦めの言葉に変わったのは、この出来事を境にしてのことではなかったかと須賀さんは推測する。
本屋で見つけたアン・モロウ・リンドバーグ著/吉田健一訳『海からの贈物』(新潮社、1967年)を読んで、ああ、須賀さんの文章と重なる文体だなと思った。
「海から受取ったものを海に返す」「浜辺での生活で第一に覚えることは不必要なものを捨てることだ」「自分一人の部屋を手に入れ、一人でいる時間を作ること、そしてどうすれば魂の静寂を得られるかを考えること」と書くアンの言葉は、どこか須賀さんの文章と重なっている。
一人の女が、もう一人の自分と対話を試みる。そして他者との対話を語り続けていく。それは現代に生きる女たちにも、きっとつながっていくのではないかと思いながら、須賀敦子の本に読まれて、魅せられて、数冊の本を読み終えた。
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