
のっけからおわびである。私は著者、上野千鶴子のもとになっているボーヴォワールの『老い』を読んでいない。したがって、原著書については全部上野からの引用を元にした理解であって、この欠如が書評者の資格に関るとすれば、申し訳ない。
もう一つも妙な弁明である。これまで私は世代論や年代論にくみしないできた。とくに上野の挙げているE・Hエリクソンの「発達段階論」はひどいものであると思う。男性のみを対象にしていることがミエミエであり、女性は全く彼の視野には入っていないからである。世代や年代のある特徴を表現することに特に反対を述べたいのではなく、そのように括られても、老齢期の生活体験はあまりにも個々別々であり、これがずっと重要だと思ってきた。「老い」というなら、86歳のこの私、これまで「老い」について数度かのインタビューや執筆を頼まれたが、断ってきた。私は私の老いを生きる、それについては特に書くことも話すこともないと。あまりにも個人的な経験だから普遍化するつもりはないし。
ところが昨今の、老人力、孤独力とか、100歳であれこれができる、老いても恋愛は必要、楽しく老いを生きるとか、なんというか高齢期を良い年代というか美化するような言説があふれているではないか。『ほどよく孤独を生きてみる』や『93歳まだ錆びない生き方』は著作である。やれやれと思っていた。ただしそのような著作を書いたり買ったり、実際に超元気な人が居ることを否定するつもりは全くない。
私の「やれやれ」、つまりはそんなわけにもいかないよ的ブツブツ感以上に、あえて「老いは文明のスキャンダル」と書き、その悲惨さ、残酷さを歯に衣を着せず暴露するボーヴォワールにほぼ伴走し、ボーヴォワールの書いていない安楽死、尊厳死に上野独自の見解を追加したのが本書である。上野はいう。「人は老いる。老いれば衰える。(略)「生涯学習」とか「生涯現役」といったかけ声を私は信じない」。でしょうよ。
老いの悲惨さや残酷さをスキャンダルとまでといい切るつもりはないものの、上野に挑発されて、私の「老い」を述べてみたくなったのである。あくまで私の一人記である。
目下一人暮らし。ボーヴォワールは「悪い健康と窮乏と孤独」が高齢者の問題であると表示するから、これを基準に考えてみよう。最初の課題。成人病の一つと、他にもクリニックに罹っているいくつかがあるが、基本的に健康に属すると思う。物忘れは酷いが考えることは好きで、こうやって書評を書いて投稿しようとか思っている。窮乏を生活資金の欠如と考えれば、基本的に質素な暮らしなので食べるだけなら年金でなんとかなる。問題は孤独。この言葉をどう取るかによるが、しみじみ寂しいなあと思いつつぼんやり外を見ていることもある。何かすることがあればとか誰かが傍にいればいいかという問題でもない。友人の一人は、高齢になり時間ができてしたいことがありすぎて寂しいなんて思う暇がない、という。まだ50代後半、ニューヨーク市の、初夏の非常に清々しい暮なずむ宵。一人カフェテラスに腰を下ろして、すさまじい孤独感に耐えていたことを鮮明に覚えている。誰か愛する人とその瞬間を共有したいと感じたのは、感情の表層的レベルにすぎない。この根源的な孤独に耐え続けなければならないのが人間として生きることであると了解したその宵。対他的存在としての自己、即自的存在としての自己を生きる限り、換言すれば、自分のあらゆる行為も感情も誰にも代わってもらえないという事実。あらゆることを自分で背負っていかなければならないという事実。一人称の死をも。
一人称の死はめぐみでもある。これは年老いてよかったと思えることの一つ。すること(doing)と在ること(being)をあえて分ければ老いは後者の独断場である。「時間」はまさしく「在ること」の核心であろう。そうであるしかない。高齢の友人たちに「日中何してるの?」と聞けば、多くは「別に何も。ごそごそやってると、あら、もうこんな時間?」なのだそうだ。時間からの解放。数年前、TVで「北アルプスの四季」という番組をやっていた。四季折々の山々、木々、花々の様子など自然の様態を画面は彼らを名付け印字するだけで、無言のなか静かな音楽のみがつないでいく。私はまるで無我の境地で自然の一部と化していた。その時私はどこにいたのであろう。
通りすぎるだけの出来事を体験、自分に何かを与えた出来事を経験として区別し、人生を形成するのは経験が重要だといったのは尊敬する哲学者森有正である。身体的頓挫に悩まされたことはあるが、比較的元気で長生きしたおかげで私なりの経験は十分に私を育ててくれたと思う。高齢化する過程や、あれこれができない現実の受容は受け入れやすい。諦めやすい。自分の身体や気力が教えてくれる。
私のこれまでの人生、考えてみればさして幸福でもなければ不幸でもないと思う。何を幸不幸とするかの定義はしない。こんなところでないでしょうか。毎日死を思いながら生きている。といっても死などは考えようもないから、なんとなく考えているだけである。
私のモノローグは、原著と本著者をみならって「老いが他者の体験」ではないことを述べてきたつもりである。長くなりすぎた。本に戻ろう。これからボーヴォワールの『老い』(上下)を読むのは大変だと思う人を怠惰というつもりはない。その代わりに、本書をぜひ手に取っていただきたい。きっとなにか感じるところがあるに違いない。老いの実態を、歴史の中の、文化の中の、近代化のなかの、老いの性、認知症の恐怖、死の自己決定、その他を凌駕するあらゆる次元から照射した労作である。ボーヴォワールと同じく、著者にもフェミニズムの視点が忘れることなく盛られているのはありがたいことである。これまでこのような著作はなかったし、これからも本書をしのぐ著作がでるだろうか。著者は、ボーヴォワールの辛辣さに伴走しながらも、生きることを諦めるな、遠慮するなと励ましてくれる。
安楽死、尊厳死について、若干の異論があるが、もう紙幅がない。この「論争」はかつての臓器移植、いつを死とするかという論点と似ている、と思ったことを付け加えたい。
◆書誌データ
署名 :アンチ・アンチエイジングの思想―ボーヴォワール『老い』を読む
著者 :上野千鶴子
頁数 :328頁
刊行日:2025/4/18
出版社:みすず書房
定価 :2970円(税込)
◆ほかの『アンチ・アンチエイジングの思想』関連の書評はこちらから
・二木 立さん https://wan.or.jp/article/show/11941
・米田佐代子さん https://wan.or.jp/article/show/11878
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