
加賀谷真澄 (かがや ますみ)プロフィール
秋田県出身。秋田県の大学で准教授として英語と文学を教える日々を過ごすうち、もう一度勉強したいという思いが高まり、アメリカ留学を決意。かつて研究留学をしていた地、ボストンのシモンズ大学へ応募し、2023年1月より留学。2025年5月に無事修了し、文学に加えてジェンダー研究で修士号を取得。ここで一度留学をお休みし、この夏休みの間に今後を決める予定。
「ボストン便り」には、シモンズ大学の先輩である河野貴代美さんに声をかけていただき、2023年よりメンバーに加えていただきました。今回が2回目の投稿となります。
🔸卒業しました!
皆さま、こんにちは。前回の「ボストン便り」(https://wan.or.jp/article/show/10629)からだいぶ時間が経ってしまいましたが、今回は嬉しいご報告をさせてください。このたび無事に修士論文を提出し、2025年5月16日、シモンズ大学の学位授与式(Commencement Ceremony)に出席してまいりました。
式は、フェンウェイ・パーク(ボストン・レッドソックスの本拠地)に隣接するMGM Music Hallという、普段はコンサート会場として使われている場所で行われました。荘厳な音楽が流れる中、卒業生が入場。卒業生は、巨大なスクリーンに映る自分たちの姿を見つつ、2階・3階席の招待客(卒業生の家族や友人)からの歓声を浴びながら、式場の真ん中を行進しました。家族から「おめでとう!」「愛しているよ!」と大きな呼びかけが響き渡ると、卒業生も後ろを振り返り、「うん、わかってる!」と大声で返し、そのやりとりに周囲がどっと笑ったり、場内はとてもにぎやか。厳かさと陽気さが同居するアメリカらしい明るい祝賀ムードが会場全体に広がっていました。

友人シェルビーと一緒に
私は前から5列目の席に案内され、壇上で祝辞を述べる学長や来賓の表情を間近に見ることができました。ニュース映像でしか見たことのなかったアメリカの卒業式に、しかも50代という年齢で実際に参加できたことは、想像していた以上に嬉しいものでした。
そして、卒業生たちに向けられた地域のあたたかいまなざしや、同級生たちとお互いを祝福し合う雰囲気など、すべてが心に残る宝物になりました。この卒業式をはじめ、留学生活の中での印象深い出来事を、大小の失敗や学びも含めて今回の便りで振り返ってみたいと思います。
🔸学位授与式出席までの道のり
《父の病気と帰国のジレンマ》
修士論文は当初、2024年12月に提出する予定でした。しかし、実際に提出できたのは2025年5月1日。予定より5ヶ月延びたのには理由があります。
2024年の後半から両親の健康状態が思わしくなく、とくに父の容体が危ぶまれました。11月に入ると、日本の家族から、父の入院の様子を知らせる連絡が日に何度も入るようになり、私は全く眠れなくなっていました。
「私、帰った方がいいよね?」と母に聞くと、「その必要はない。勉強を優先してほしい」と言われましたが、姉からは「すぐに帰れるように準備しておいて」と言われ、すごく悩みました。
もし私が日本国内にいたら、迷わず父のもとに向かったと思います。
しかしすぐに帰国できなかったのは、それまで真面目に出席し、レポートや発表に取り組んできた授業の単位が無効になるおそれがあったからですおそらく単位は取れず、そうなるとビザも取り消しになる可能性がありました。
私は、すぐ帰れるように準備をしつつ、対面の授業が終わる12月まではボストンに留まることにしました。
後に事務スタッフに確認したところ、もし11月で帰国していたら(そのセメスターの授業の単位は取れないので)、私の学生ビザは失効していたであろうということでした。
父の方はその後なんとか持ち直して年を越すことができました。そして私も対面授業の単位が取れたことが確認できたので、帰国することにし、論文指導はリモートにしてもらうことができました。
リモートにできたのは、私の状況を知った指導教員のひとり、タチアナがそう提案してくれたからでした。彼女はこう言いました。
「家族の健康を心配しながら論文を書くのは無理だと思う。きっとあなたは今、何も手に付かないはず。私も学生時代、博士論文の提出直前に父を亡くし、まる二ヶ月間何も手につかなかった。だから、あなたも後悔しないよう、ご両親のそばで論文を書けばいい。それでうまくいくはず。」
私はその提案に従い、必要な手続きを済ませてから日本へ帰国しました。帰国後は、2週おきにオンラインで個人面談やグループでの打ち合わせを行い、時には成田のホテルのロビーで、あるいは明け方のベッドで携帯電話から面談に参加し、少しずつ原稿を仕上げ、論文の最終版を無事に提出しました。それは学位授与式の2週間前、5月1日のことでした。
《修士論文のテーマ》
私の修士論文は、明治から大正期にかけてボストンの大学に留学した日本人女性たちの歩みに焦点を当てたものです。性別によって進路が制限された時代に、彼女たちはどのようにしてアメリカの大学で学び、自らの道を切り拓いたのか。学業と異文化の中で直面した困難、そして教育や社会における彼女たちの後進への貢献についても、当時の記録や書簡、新聞記事などをもとに分析しました。
明治の女子留学生といえば津田梅子がよく知られていますが、彼女のような著名な国費留学生ではなく、より無名でまだ知られていない女性たちを対象にした点に、この研究の意義があると考えています。
論文執筆にあたってはアーカイブ調査が欠かせず、必要な資料はすべて自分の足で集めました。今年の1月までは資料収集に集中し、ハーバード大学やボストン大学、ウェルズリー大学、シモンズ大学など、複数の大学アーカイブを巡りました。各大学の司書の方に助けていただきながら、当時の学生記録や書簡、校内資料などを集めました。
帰国後は、集めてきた資料とじっくり向き合いながら、論文の執筆に集中しました。ただ、帰国直前はアパートの片付けや帰国に伴う事務的な手続きに追われ、資料収集がたびたび中断されてしまい、不安に襲われる毎日でした。「これまで頑張ってきたのに、何も手にできないまま終わってしまうのではないか」――そんな不安が、毎日のように頭をよぎりました。
《卒業に向けた覚悟》
5月に大学を卒業するなら、「このセメスターが終わったら卒業します」という卒業申請を、12月に大学に提出しておく必要がありました。また、学位授与式(Commencement Ceremony)に出席するかどうかや、礼服のガウンを購入するかどうかも、3月までには申告・注文をしておかなければなりません。
ですから、今学期中に必ず論文を提出するという強い意志があること、そして指導教官も「この学生はきっと提出できる」という確信を持っていなければ、卒業式に向けた準備を進めることはできないのです。私は、絶対提出する、きっとできるはず…と自分自身を励ましながら、綱渡りのような状態で書き続けました。なんとか提出できたとき、先生がたから「よくやったね」と言っていただき、これまでの努力が報われたようで、本当にうれしく、心から安堵しました。
その後、父の状態は安定し、毎日気を揉むような状況からは解放されました。すると今度は、家族やボストンの友人たちから「卒業式に出席するよね?」と聞かれるようになりました。
皆、「一度きりの経験だから、絶対に出席すべき」と背中を押してくれました。卒業証書は郵送してもらうこともできますが、私は式に出席することに決めました。
何よりも、友達や先生がたにもう一度会いたいという気持ちが強かったからです。円安の影響で航空券の代金はかなり高かったですが、結論から言えば、本当にボストンに戻ってよかったと思っています。街全体が卒業を祝ってくれるような温かい雰囲気を、直接肌で感じることができたからです。
🔸卒業式当日
私は卒業式に出席するため、しばらくのあいだボストンに滞在しました。家族は誰も来られなかったため、「一人ぼっちで会場入りするのは寂しいな」とか「他の卒業生が家族に囲まれている様子を見るのは辛いかも」といった不安な気持ちがありました。
けれど、ボストンで親しくしていた日本人の友達が私の話を聞き、「あなたの家族として出席するよ」と言ってくれたことで、急に心強くなりました。涙が出そうなほど嬉しく、彼女たちには、心から感謝しています。友よ、家族のように寄り添ってくれてありがとう!

家族として出席してくれた友人の佳代子さん、純子さん
5月のボストンは、毎週のようにどこかの大学で卒業式が行われており、ガウンを着た卒業生とその家族が街を歩く姿があちこちで見られました。まるで街全体が祝福ムードに包まれているよう。
そしていよいよ卒業式当日――。私が卒業生のガウンを着て会場に向かって歩く途中、見知らぬ人から「おめでとう!」とすれ違いざまに声をかけられました。それも何度も。路面電車に乗ったときには、運転手さんからも「今日はお祝いだから無料でいいよ」と言われ、乗車料金がタダに。そんなやりとりのたびに、なんとも言えない温かい気持ちがこみ上げてきました。
式場はMGM Music Hallという通常はコンサートが行われる大会場でした。(写真は夜のものですが、実際の式は早朝からでした)
ボストン・レッドソックスの本拠地であるフェンウェイ野球場に隣接した堂々たる建物です。

卒業式の会場
《冷や汗ものの失敗》
卒業生たちは、式場の向かいの会場で待機することになっていました。そこも音楽ホールで、私が到着した時にはすでに卒業生の列ができていました。そしてここから、私はいくつもの“やらかし”を重ねてしまうのです…。思い出すたびに「ウァ〜」とうめき声を上げてしまいます。
まずは衣装の失敗。卒業生のガウンとフードを身につけて並んでいたところ、誘導係の大学スタッフが駆け寄ってきて、「ボタンは全部留めましょうね。それと、フードが裏返しですよ〜」と優しく直してくれました。なるほど、たくさんついているボタンは、ハンガーに掛けるためのものではなかったのか。歩くたびにガウンがずり落ち、背中に掛かるはずのフードが、お腹のあたりに垂れ下がってきたのはボタンを掛けてないせいだったのかとようやく理解しました。
私の格好は、まるでだらしなく着崩した姿のように見えたのでしょう。思い出すたびに、顔から火が出そうになります。

手元にビニール袋が...
次に手荷物。事前の案内には「手荷物はクラッチバッグ(片手に持つフォーマルなバッグ)の大きさまで。大きなバッグは不可。手荷物が多い場合は透明な袋に入れること」と書かれていたため、私は透明なビニール袋に携帯や財布を入れて持っていました。ところが受付でスタッフに止められ、「ステージに登り、みんなが見守る中で証書を受け取るのに、片手にビニール袋を持っていて大丈夫ですか?」と指摘されました。
周囲を見回すと、みんなパーティ用の綺麗なクラッチバッグを持っていて、ビニール袋をぶら下げているのは私だけ。しかしもはやどうしようもなく、それを小さく丸めて隠すように握りしめるしかありませんでした。
その後、誘導された場所で1時間ほど待たされたでしょうか。並んだ列の前後の人たちとおしゃべりをしていましたが、知っているクラスメイトの姿が見えず、「あれ?なんか変だな」と不安になって辺りを見回しました。すると突然アナウンスが流れ、「マスミさんはこの会場に来ていますか?」とホール中に自分の名前が響き渡ったのです。
私は驚いて、「ここにいます!」と大声で返事をしました。その瞬間、私は違う学科の列に並んでいたのだと気づきました。なんて間抜けな失敗でしょう。恥ずかしさで、本気で消えたくなりました。私の学科の友達は、一階で列を作って私を待っていました。案内係に言われるまま、私は誤って二階の別の学科の列に並んでしまっていたのでした。自分で確認するべきだったのに…。慌てて遠く離れた自分の列に駆けつけると、友人たちが待っていて、「あなたが来ないから、みんなで捜索していたのよ!」と笑われてしまいました。ああ、本当に恥ずかしかったです。
《感動の瞬間》
そんな赤面ものの失敗を経て、いよいよ卒業式が始まりました。私たち卒業生は、アメリカの卒業式ではおなじみの「威風堂々(エルガー作曲『Pomp and Circumstance March No.1』)」が厳かに流れる中、会場に入場。いよいよ卒業式が始まるのだという実感が湧いてきました。
全員が着席すると、シーンと水を打ったような静寂が広がり、来賓や学長の感動的なスピーチが続きました。今という激動の時代をどう生きるか、世界が分断と変化を迎える中で何を指標として歩んでいくか――そんな問いかけが詰まった語りに、会場全体が静かに耳を傾けていました。
学生代表のスピーチも印象的でした。移民第二世代としての自分の背景にふれながら、家族への感謝、そしてこれから社会に出ていくことへの期待と希望を、輝くような明るい表情で語ってくれました。その後は卒業証書授与です。一人ひとりの名前が読み上げられ、壇上へと進みます。私も緊張しながら登壇し、証書を受け取ったあと、学長とグータッチ(fist bump)を交わしました。そんなカジュアルでフレンドリーな演出も、いかにもアメリカらしくて、心に残る瞬間となりました。
気がつけば、だいぶ長く書いてしまいました。本当はこのあと、クラスメイトや先生のこと、キャンパスで遭遇したデモの話なども綴るつもりでしたが、それはまた次回の便りでお届けできればと思います。
◆加賀谷真澄さんの過去記事:「ボストン便り no.11 :「 もう一度学びたい!ー 再び学生になる」:https://wan.or.jp/article/show/10629
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